下総 佐倉城
Sakura castle
佐倉城跡【千葉県佐倉市城内町】
国立歴史民俗博物館【千葉県佐倉市城内町117】
佐倉高等学校【千葉県佐倉市城内町278】
佐倉中学校【千葉県佐倉市城内町117-10】
【立地】平山城
【別称】鹿島城
【市指定史跡】
【歴史】1610年土井利勝が下総国小見川1万石から下総国佐倉3万2000石へ入封。
初め、利勝は松平信吉が築いた大堀館に居たが、家康より築城を命ぜられ、1611年着工
、1617年鹿島台〔鹿島城跡〕に三重天守、二重銅櫓、隅櫓、御殿を完成させた。新城が
出来てから鹿島台一帯を「佐倉」と呼ぶようになり、商人町も佐倉新町と呼ばれた。老中を
務めた利勝は度々加増を受け、1625年には下総国香取・埴生・印旛・匝瑳・相馬・海上
郡内、上総国武射郡内、常陸国鹿島・信太・河内郡内、近江国蒲生・甲賀郡内で14万20
00石を領有した。1633年利勝は下総国古河に転封、豊後国日田の石川忠総が7万石で
入封するが、翌1634年近江国膳所へ転封。1635年摂津国高槻の形原松平家信が4万
石で入封、その子康信が継ぎ、1640年高槻に戻る。1642年若年寄6人衆の一人堀田
正盛が信濃国松本から11万石で入封。正盛の母は稲葉正成の先妻で、正成の後妻となった
春日局との縁で、1620年3代将軍家光に近侍して目覚ましい昇進を遂げた。1651年
正盛は3代将軍家光に殉死し、子の正信が家督を継いだ。しかし、1653年佐倉惣五郎事
件が元で、1660年居城退去、信濃国飯田→阿波国徳島と流刑され、1680年4代将軍
家綱に殉死した。1661年上野国館林から大給松平乗久が6万石で入封、1678年1万
石加増で肥前国唐津へ転封、唐津から大久保忠朝8万3000石で入封した。忠朝は分家の
大久保教隆の次男で、1670年忠職の養子となり、本家の遺領を継いだ。1677年老中
に昇進、1680年1万石加増、1686年1万石の加増を受けて小田原10万3000石
へ転封となる。その後、戸田忠昌6万1000石〔老中・後に7万1000石〕-忠真6万
7800石、稲葉正往10万2000石-正知、大給松平乗邑6万石〔老中・後に7万石→
蟄居〕-乗佑、堀田正亮10万石〔後に11万石・老中〕-正順〔京都所司代〕-正時-正
愛-正睦〔老中→罷免→老中→蟄居〕-正倫と続き、1869年版籍奉還、1871年廃藩
置県を迎える。1962年市史跡に指定、2006年日本100名城に選定される。現在は
博物館、佐倉城址公園となり、曲輪、土塁、空堀、水堀などが残る。
【所感】椎木曲輪に在る国立歴史民俗博物館へ行く人は多いですが、本丸・二の丸などのエ
リアを歩く人は多くありません。本丸は土塁も在って城跡らしい雰囲気を感じますが、曲輪
間を仕切る空堀の方は木々が生い茂り、覗いている人も城好きぐらいでしょうか。空堀の木
々を取り除き、深く立派な空堀を見えるようにすれば、城跡に対する関心も高まるでしょう
。私のお薦めは本丸の南・北に在る出丸。水堀に囲まれた四角いエリアに土塁もしっかり有
る。今回は天候に恵まれなかったが、次回は時間を掛けて撮り直したい。
天守跡・本丸
銅櫓跡・本丸
隅櫓跡・本丸
本丸東端の土塁
一の門跡・本丸
二の丸-本丸間の台所門(不明門)跡
二の丸
二の丸御殿跡
二の丸南端の土塁
佐倉城の礎石・二の丸
ニの門跡
三の丸
三の門跡
三の門跡-三の丸御殿間の空堀
三の丸御殿跡
椎木門跡
角馬出しの空堀・椎木曲輪
本丸北側の出丸を囲む土塁
薬医門と水堀・本丸北側の出丸