武蔵 品川台場
Shinagawa Daiba

品川台場跡【東京都港区台場1丁目】

【立地】海上
【別称】品川沖台場・品川御台場

【国指定史跡】品川台場

【歴史】1853年6月3日浦賀〔横須賀市〕沖に米国東インド艦隊司令官ペリーが、軍艦
4隻を率いて開国要求の為に来航した。幕府は長崎回航を要求したが受け入れられず、更に
羽田〔東京都大田区〕沖まで侵入、威嚇された。やむを得ず久里浜〔神奈川県横須賀市〕で
親書を受け取り、翌年回答することを約束してペリーは撤退した。この後、幕府は江戸湾防
備体制の見直しが行われ、6月18日海防掛の若年寄本多忠徳、勘定奉行の川路聖謨、目付
戸川安鎮、代官江川英龍らに江戸湾沿岸の下見を命じ、7月23日品川沖に台場を築造する
ことを決定。川路・江川の調査から、8月3日南品川猟師町海岸〔御殿山下〕に1基、深川
洲崎弁天付近までの海上に11基、計12基の台場築造を上申した。1853年8月2日よ
り第1台場〔川崎藩警備〕・第2台場〔会津藩警備〕・第3台場〔忍藩警備〕・第5台場〔
庄内藩警備〕・第6〔松代藩警備〕・御殿山下台場〔鳥取藩警備〕と順に築造されたが、第
4〜第7台場は財政難から中止となった。台場が機能していない状態で、1854年1月1
6日予定より早くペリーの軍艦7隻が小芝〔横浜市〕沖に停泊、後に大師河原〔川崎市〕沖
まで進み、江戸近くまで侵入されることを恐れ、3月3日「日米和親条約」が結ばれた。品
川台場は、1873年第一軍管海岸砲隊の管轄下に入り、1875年陸軍省の所管となる。
1926年第3・第6台場が国指定史跡となり、1928年第3台場が都市公園「台場公園
」として開園、1941年東京湾開港、1951年第3・第6台場を除き、他の台場全てが
撤去・埋め立てが行われた。2017年続日本100名城に選定される。現在は石垣、土塁
などが残る。

【所感】嘗て、品川沖に浮んでいた台場が歩いて行ける!是非、見てみたい!とずっと思っ
ていましたが、やっとそのチャンスがやって来ました!東京モーターショーです!実はモー
ターショーへ行く前、ゆりかもめ「お台場海浜公園駅」で下車して撮影しました。石垣に支
持された巨大な土塁が四方を囲み、中央部の窪地に陣屋跡の礎石、土塁に囲まれた玉置所、
巨大土塁に掘られた弾薬庫、海へ突き出した船着き場など、初めて台場のイメージが掴めた
ような気がします。一度は行って欲しい。







第3台場跡の石垣



第3台場跡(台場公園)入口の階段



大砲が並んでいた土塁・台場公園



第3台場跡の内部・台場公園



陣屋(兵舎)跡・台場公園





土塁に囲まれた南の玉置所跡・台場公園





土塁に囲まれた東の玉置所跡・台場公園



36ポンド砲実物大模型の砲架2基・台場公園




東の弾薬庫跡・台場公園





南の弾薬庫跡・台場公園





船着き場跡・台場公園



第3台場跡から見た第6台場跡



第3台場跡から見た鳥の島