三河 設楽原古戦場
Shitaragahara battleground
設楽原古戦場【愛知県新城市須長・八束穂・竹広・川路ほか】
設楽原歴史資料館【愛知県新城市竹広552】
【歴史】1575年5月21日、織田信長・徳川家康連合軍3万8000が武田勝頼軍1万
4000を破った戦いである。4月21日武田勝頼は1万4000の兵で奥平信昌500が
護る長篠城を包囲。次に長篠包囲軍を残し、東三河南方の二連木城、牛久保城にも攻撃を仕
掛けた。5月1日勝頼は軍を返して再び長篠城攻囲を指揮、猛攻するが、200丁の鉄砲、
大鉄砲を有する長篠城の抵抗は強く、容易には落城しなかった。信長は5月13日岐阜を出
立し、5月14日夜に岡崎城に到陣。15日午前2時頃、細雨の中、奥平信昌の家臣鳥居強
右衛門勝商が長篠城の野牛郭から豊川へ降り、武田軍の厳しい監視、川中の鳴子網を掻い潜
り、4キロ下流の広瀬〔川路〕に上陸した。15日夜明け、雁峰山で「脱出成功」の狼煙1
本を上げ、作手を経て、岡崎までの道をひた走った。同日、家康、信長に長篠の現況報告、
援軍の要請を求め、信長は強右衛門に道案内を頼んだが、帰城を強く望み、16日雁峰山で
「援軍来る」の狼煙を3本上げ、長篠城へ降った。篠場野〔有海〕まで来て入城の機会を伺
っていた時、武田軍に捕らえられ磔刑に処せられた。信長軍3万の兵は16日牛久保城へ入
り、17日野田で野宿をとり、18日上平井の極楽寺に本陣を構えた。一方、家康軍800
0は1日遅れで岡崎を出立し、18日信長よりも先に設楽原に到着し、3日間に亘って連吾
川沿いに馬防柵を築いた。20日夜、信長は極楽寺本陣に諸将を集めて軍議を開き、鳶ヶ巣
山砦を急襲すべく、酒井忠次らに鉄砲500挺を持たせて出陣させた。忠次は設楽原の南方
を大きく迂回し、背後から武田信実が護る鳶ヶ巣山砦を落した。武田軍が連吾川対岸の才ノ
神に布陣したことを知った信長は、極楽寺から茶臼山に本陣を移し、諸事を指揮した。この
時、木下秀吉が茶臼山陣所北方に布陣し、弾正山南端に徳川家康が布陣した。21日朝6時
頃、武田軍将兵が織田・家康陣営へ突進。戦闘中、後方の鳶ヶ巣山砦落城の報を聞き、もは
や後退り出来ない武田軍は突進するしかなく、馬防柵から放たれる3000挺の鉄砲の前に
武田方の有力武将が倒れた。21日午後2時頃、信長・家康軍はほぼ無傷の状態で勝利を収
め、大敗した武田軍は馬場信房が殿を務め、寒狭川を遡り、布里小松→田峯→武節城を経て
、甲府へ退却した。この戦いの戦死者は武田軍1万人、織田・徳川連合軍は6000人とさ
れる。現在、古戦場一帯に石碑、看板、墓石などが建てられ、観光客が多く訪れている。
【所感】設楽原歴史資料館北側の道を西へ降りて行くと、右手奥に復元された馬防柵が見え
て来ます。再現された馬防柵はほんの一部ですが、往時は連吾川沿って間隔を持ちながら南
北に長く築かれました。また、この川を中心に両軍の陣所、激戦地、墓碑、塚などが多く散
在し、その殆どは長篠城址史跡保存館で購入出来る「長篠・設楽原の戦い史跡案内図」に載
っています。それらを周った結果が以下の写真です。
◎ 長篠、設楽原の戦い・史跡 ◎
1.織田信長旗本地〔写真:左〕2.織田信長本陣・極楽寺〔写真:右〕
3.織田信雄本陣地〔写真:左〕4.織田信忠本陣地〔写真:中央〕5.岡崎信康本陣地〔写真:右〕
6.織田信長戦地本陣〔写真:左〕7.羽柴秀吉陣地〔写真:右〕
8.徳川家康本陣地〔写真:左〕9.長篠役設楽原決戦場〔写真:右〕
10.家康物見塚跡〔写真:左〕11.土屋右衛門尉昌次戦死之地〔写真:中央〕12.先佐久間信盛 後馬場信房陣地〔写真:右〕
13.大宮前激戦地〔写真:左〕14.柳田川〔写真:右〕
15.柳田前激戦地〔写真:左〕16.甘利郷左衛門尉信康之碑〔写真:右〕
17.竹廣激戦地〔写真:左〕18.高坂源五郎昌澄之碑〔写真:中央〕19.大久保兄弟陣地〔写真:右 〕
20.廣瀬渡・鳥居勝商上陸地〔写真:左 〕21.勝楽寺前激戦地〔写真:中央〕22.伝山本勘蔵信供之墓〔写真:右〕
23.首洗池〔写真:左 〕24.山県昌景陣地〔写真:中央〕25.山県三郎兵衛昌景之碑〔写真:右〕
26.原隼人佐昌胤之碑〔写真:左〕27.信玄塚〔写真:右〕
30.土屋右衛門尉昌次之碑〔写真:左〕31.内藤昌豊陣地〔写真:中央〕32.内藤修理亮昌豊之碑〔写真:右〕
33.武田勝頼観戦地〔写真:左〕34.伝五味與惣兵衛貞氏之墓〔写真:中央〕35.甲田〔写真:右〕
36.真田源太左衛門尉信綱之碑・真田兵部丞昌輝之碑〔写真:左〕37.伝武田諸将訣盃ノ跡〔写真:中央〕37-2.伝武田諸将訣盃ノ池〔写真:右〕
38.武田勝頼戦地本陣地〔写真:左〕39.信長賞詞地〔写真:右〕
40.鳴子網架設地〔写真:左〕41.鳥居強右衛門磔死之碑〔写真:中央〕42.伝高坂又八郎助宣之墓〔写真:右〕
43.智海常通居士(鳥居強右衛門の墓)〔写真:左〕44.伝小山田五郎兵衛昌晟之墓〔写真:中央〕45.横田十郎兵衛康景之碑〔写真:右〕
46.松平伊忠戦死之地〔写真:左〕47.猿橋〔写真:右〕
48.馬場美濃守信房之碑〔写真:左〕49.滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地〔写真:中央〕50.武田勝頼公本陣趾〔写真:右〕
51.武田勝頼本陣地〔写真:左〕52.天神山〔写真:中央〕53.追手門跡〔写真:右〕
54.蟻封墖(蟻塚)〔写真:左〕55.馬場信房殿戦忠死之碑〔写真:中央〕56.史跡指定地境界 文部省(外三ヶ所)〔写真:右〕
57.弾正郭〔写真:左〕58.倉屋敷〔写真:中央左〕59.帯郭〔写真:中央右〕60.史跡 長篠城址 文部省〔写真:右〕
61.本丸〔写真:左〕62.野牛郭〔写真:中央左〕63.殿井〔写真:中央右〕64.櫓跡〔写真:右〕
65.巴城郭〔写真:左〕66.瓢郭〔写真:中央〕67.搦手門跡〔写真:右〕
68.文政十年建立 大通寺盃井碑〔写真:左〕69.君が伏床 和田兵部陣地〔写真:中央〕70.姥ヶ懐 武田浪人組陣地〔写真:右〕
70.三枝兄弟ノ墓〔写真:左〕71.鳶ヶ巣山 武田兵庫頭陣地〔写真:中央〕72.中山〔写真:右〕
73.久間山〔写真:左〕74.設楽越中守陣地〔写真:中央〕75.鳶ヶ巣奇襲隊進路 松山越〔写真:右〕
76.上州沼田産矢立硯発見地〔写真:左〕77.馬防柵再現地〔写真:右〕
78.武田軍軍馬供養塔〔写真:左〕79.川路城址・お鷹井戸〔写真:右〕
80.小屋久保〔写真:左〕81.山本信供戦死之地〔写真:右〕
82.馬場美濃守信房戦死之地/ふぢう道 緒巻桜〔写真:左〕83.橋詰殿戦場〔写真:左〕〔写真:右〕
84.橋詰さんばし跡/鵜の首
◎ 設楽原古戦場いろはかるた ◎
家康が 本陣ここに 八剱山●老将の言 勝頼は 封じたり●はたぼこと 秀吉陣地の 名を伝う●日本の 戦史かえたる 設楽原
掘りあてし 弾丸は 鉄玉鉛玉●平然と 首を渡す 美濃守●樋田にて 退路をたちし 設楽貞通●治水にも つくせし昌胤 ここに死す
律義にも 塩瀬が残す 五味の首塚●ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川●故ありて 昌純の墓は 小川路に●留守の役 高坂弾正は 海津城
わが主君の 身がわりとげし 笠井肥後●勘蔵は この地に死して 名を残す●吉川より 豊田藤助 先に立ち●たぐいなき 騎馬隊倒す 三千挺
連吾より 浜田に続く 馬防柵●そこかしこ 顕彰碑たてし 牧野文斎●土屋昌次 柵にとりつき 大音声●ねんごろに まつり絶やさぬ 勝楽寺
内藤の 陣地も墓も 天王山●来援を せかじとつげし 鈴木金七●村人は いくさをさけて 小屋久保●鵜の首を わたりて押し出す 竹田勢
井戸がわり 大宮川で 渇いやす●信長の陣 茶臼山に 歌碑もあり●首洗い 池は血色に 水濁る●山県の最期 胴切りの松に 秘め
守りぬく 城主の貞昌 二十一●訣盃の跡 清井田に 清水わく●甲田の 地名あわれに 言い伝う●えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる
手振りよく おどる酒井の えびす舞●赤禿に 勝頼本陣 進めたり●佐久間と馬場 丸山とりでの 攻防戦●奇襲隊 広瀬を渡りて 鳶ヶ巣へ
雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康●冥福を 祈る武将の 慰霊牌●三子山に 真田兄弟の 墓ならぶ●絵図ひらき 軍議かさねし 極楽寺
日は悲し 一五七五ぞと 武田七九●先陣の 大久保兄弟 うって出る●強右衛門 のろしをあげし 雁峰山●京めざす 武田の雄図 今悲し
◎ 長篠、設楽原の戦い・戦死者の墓碑 ◎
松平主殿助伊忠◆山縣三郎兵衛昌景・山縣甚太郎昌次・名取又左衛門通忠・高坂又八郎助宣
鳥居強右衛門勝商〔智海常通居士〕◆小山田五郎兵衛昌晟・横田十郎兵衛康景・高坂又八郎助宣・和気善兵衛宗勝
温井左近昌国・土屋右衛門尉昌次◆高森恵光寺入道快川◆称津甚平是広・常田図書春清
馬場美濃守信房◆馬場彦五郎勝行◆鎌原筑前守之綱◆真田兵部丞昌輝・真田源太左衛門尉信綱
山本勘蔵信供◆米倉丹後守正継◆横田備中守綱松◆内藤修理亮昌豊
望月甚八郎重氏◆土屋備前守直規◆川窪備後守詮秋◆堀無手右衛門
原隼人佐昌胤◆小幡上総介信貞◆五味與惣兵衛貞氏◆樋口下総守兼周
高坂源五郎昌澄◆甘利郷左衛門尉信康
岩手左馬之助胤秀・岡部竹雲斎◆笠井肥後守満秀之墓
鈴木金七郎重正の墓〔新城市作手田代〕◆伝鈴木金七郎重正の墓〔新城市富永上野〕
鈴木金七郎重正の生誕地〔新城市富永屋山〕◆長篠・設楽原の戦いにおける鈴木金七郎〔長篠設楽原SA下り入口〕