近江 賤ヶ岳砦
Shizukatake fort

賤ヶ岳砦跡【滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦】

【立地】山城
【別称】賤ヶ岳城

【歴史】1583年「賤ヶ岳の戦い」の際、賤ヶ岳〔標高421m、比高310m〕の山頂
に築かれた秀吉軍の砦である。1582年「本能寺の変」の後、織田家後継者・遺領分配を
決める「清須会議」が開かれ、羽柴秀吉と北ノ庄城主柴田勝家の対立が深まる。「賤ヶ岳の
戦い」の際、柴田勝家軍は行市山砦・別所山砦などに砦を築いて玄蕃尾城を拠点とした。一
方の羽柴秀吉軍は賤ヶ岳砦・堂木山砦・神明山砦・岩崎山砦・大岩山砦などを築いて田上山
砦を本陣とした。1583年3月10日、柴田勝家軍の先鋒佐久間盛政が北近江の柳ヶ瀬に
着陣。3月12日柴田勝家軍総勢約2万人が柳ヶ瀬に終結し、柴田勝家は玄蕃尾城へ入り、
佐久間盛政・柴田勝政は行市山砦に布陣。3月17日伊勢・美濃の攻略を後回しにした秀吉
軍約5万人が木之元に着陣。秀吉は木之元に本陣を置き、東野山砦に堀秀政、田上山砦に羽
柴秀長、大岩山砦に中川清秀、岩崎山砦に高山重友、賤ヶ岳砦に桑山近晴を配した。両軍が
睨み合う形で戦線が膠着する中、岐阜城の織田信孝が反旗を翻した為、秀吉自らが大軍を率
いて岐阜へ向かった。4月20日秀吉不在を知った佐久間盛政隊は大岩山砦〔中川清秀〕・
岩崎山砦〔高山右近〕へ進軍し、中川清秀は敗死、高山右近は退却した。柴田勝政隊は賤ヶ
岳砦〔桑山近晴〕へ兵を進めたが、直前で大溝から上陸した丹羽長秀の反撃に遭い、進攻を
断念。20日午後、揖斐川の氾濫で大垣に留まっていた秀吉軍は、午後2時頃木之元に向か
って進軍、午後9時頃、羽柴秀吉軍5万人が木之元に到着し、羽柴秀吉は田上山砦を本陣と
した。21日未明、秀吉は佐久間盛政隊への攻撃を指示。賤ヶ岳付近では賤ヶ岳七本槍と呼
ばれる福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則が活躍し
、武功を挙げる。別所山砦から茂山砦に移った前田利家・利長父子が何故か撤退。この事態
に勝家勢に動揺が走り、一部の兵が後退を始めた。後退する佐久間盛政隊・柴田勝政隊を秀
吉軍が追撃、敗走する柴田勝家を追って羽柴秀吉も直ぐに追走し、居城北ノ庄城を攻め、勝
家は自害した。現在は公園・展望台となり、曲輪、土塁、堀切、竪堀が残る。


【所感】賤ヶ岳〔山頂広場・賤ヶ岳砦跡〕は、周辺の山で最も標高が高く、賤ヶ岳を中心に
ハイキングコースが展開しています。琵琶湖・余呉湖両方が見える見晴らしの良い場所、観
光客やハイカーが集まる場所です。東屋が在る二の郭南端に土塁が残り、東屋の脇から北西
尾根に下りると堀切が1条あります。リフトへ下りる南尾根にも浅い堀切が有るようですが
、私は分かりませんでした。二の郭の東隣りに一段高くなって主郭が有り、北側が低くなっ
て2段になっています。主郭東隣りに堀切〔堀切跡〕を介して三の郭、三の郭から東へ下り
ると、左手に竪堀、右手に小さな堀切が確認出来ます。もう少しアングルを変えて撮りたい
ので、再訪ですね。





賤ヶ岳リフト




賤ヶ岳砦跡(山頂広場)登り口



琵琶湖





賤ヶ岳合戦戦没者霊地



七本槍古戦場賤ヶ嶽の碑・二の郭





二の郭



二の郭北西尾根の堀切



二の郭の虎口と土塁



史蹟賤ヶ岳七本槍古戦場碑・主郭



賤嶽戦趾碑・主郭



主郭下段



主郭上段



戦のあと・主郭



戦のあと・主郭



主郭−三の郭を区切っていた堀切跡



三の郭



余呉湖



三の郭から東尾根に下りる途中の竪堀



三の郭から東尾根に下りる途中の小さな堀切