周防 山口城
Yamaguchi castle

    山口城跡【山口県山口市滝町】
    山口県庁【山口県山口市滝町1−1】
 山口県政資料館【山口県山口市滝町1−1】
萩藩主毛利家墓所【山口県山口市香山町1−1】


【立地】平城
【別称】山口御屋形

【国指定史跡】萩藩主毛利家墓所

【歴史】1864年毛利敬親が築いた稜堡式城郭である。1863年4月萩藩主13代毛利
敬親は、攘夷に備えて沿岸の萩城から大内氏が拠点とした山口に藩庁を移した。初め「日帰
り湯治」と呼ばれていたが、保守派に取り囲まれた萩では攘夷を実行出来ない為、後に山口
永住と布告し、諸役所も山口に移した。萩城は藩庁としての役目を終え、山口は大村益次郎
らの都市計画により、新しい城下町が誕生した。山口に移った直後の5月15日、敬親は朝
命を奉じて下関海峡通航の外国船を撃破、高杉晋作らが奇兵隊を結成して参戦した。しかし
、敬親は『八月一八日の政変』で入京を禁じられ、1864年7月長州藩が『禁門の変』を
引き起こした為、『第一次長州征伐』の命が下り、官位と称号を剥奪され、三家老の切腹、
四参謀を斬首して恭順を表して謹慎した。城は破却されたが、1865年4月に再建され、
1866年5月藩主が入った。『第一次長州征伐』敗戦後、萩藩の実権を握った保守派に対
して高杉晋作ら革新派は、1865年1月にクーデターを起こし、『太田・絵堂の戦い』で
保守派を破った。やがて萩藩は薩摩藩との薩長連合により、幕府崩壊と近代日本への変革の
道を拓くことになった。1866年6月『第二次長州征伐』が開戦すると、長州軍は士気が
上がらない幕府軍を破り、1867年10月に敬親は討幕の密勅を受け、11月藩兵を率い
て東上、12月官位を復した。萩藩は維新の動乱期を通じて大きな役割を果たした。新政府
の中央集権の第一歩である。1869年1月の版籍奉還では敬親はその必要性を説く木戸孝
允の意見を容れて薩摩・土佐・肥前の三藩主に奉還を奏上させた。1870年6月敬親は権
大納言に進み、世子元徳とともに賞典禄10万石を下賜され、家督を元徳に譲って隠居した
。元徳は山口藩知事に任じられ、1871年廃藩置県を迎える。現在は山口県庁や資料館な
どに変わり、門、水堀、石垣が残る。


【所感】山口遠征の初日、旧山口藩庁門、水堀、石垣は何とか撮影出来ましたが、時間切れ
でホテルに戻ることにしました。もう少し時間があれば、城内の様子や関連史跡も撮りたか
った。




旧山口藩庁門(御表門)













山口城跡南側の水堀







山口城跡東側の水堀





萩藩主毛利家墓所【国指定史跡】