駿河 長久保城
Nagakubo castle
長久保城跡【静岡県駿東郡長泉町下長窪】
城山神社【静岡県駿東郡長泉町下長窪1074】
ウェルディ長泉【静岡県駿東郡長泉町下長窪1076】
長泉町立北小学校【静岡県駿東郡長泉町下長窪1060】
トーエイアドバンス第1センター【静岡県駿東郡長泉町下長窪1075−1】
ホテルルートイン長泉沼津インター第1【静岡県駿東郡長泉町下長窪1157−1】
【立地】平城
【別称】長窪城
【歴史】城の創成は不明である。一説には、鎌倉時代〔1185〜1333年〕初期、竹之
下〔足柄〕に居住した竹下孫八衛門が築いたという伝承があるが、詳らかではない。148
2年葛山氏は曽我上野介が所有する沼津郷に対して代官職と称して押妨を続け、所領拡大の
拠点として長久保に砦を築いた可能性もある。1537年より始まる『河東の一乱』の際、
北条氏綱が本格的に改築したと考えられ、氏綱の弟長綱や清水康英らが城将となった。15
45年対立していた今川義元が武田信玄の援助を得て、長久保城を包囲、氏綱の嫡男氏康は
信玄の仲介で開城した。1568年武田信玄の駿河侵攻が始まり、葛山氏は武田方に加わっ
た。北条氏は長久保城に兵を集め、清水太郎左衛門が城将を務めた。1572年黄瀬川西岸
は武田の支配になったらしいが、一時、武田氏が長久保城を管理していたらしく、この時期
に武田流の丸馬出を付け加えたと思われる。1582年武田家滅亡後、家康の家臣牧野康成
が入る。1590年秀吉の『小田原征伐』の際、徳川家康は豊臣秀吉を当城に迎えて軍議を
開いたとも言われる。駿河国は中村一氏の支配下となるが、1600年『関ヶ原の戦い』後
、一氏は伯耆国米子城17万5000石へ移り、廃城となる。現在は店舗、道路、工場、学
校、神社などに変わり、曲輪、土塁、空堀などの一部が残されている。
【所感】城を南北に二分するように国道246号線が走り、市街化された長久保城跡。初め
は城趾碑のみで遺構は無いと思っていましたが、縄張り図を見て北小学校の東側に土塁と横
堀の一部、城山神社〔南曲輪〕に2つの曲輪と土塁が残されていました。黄瀬川を南に置き
、西の桃沢川、東の梅ノ木沢川に挟まれた台地の先端に築かれています。
本曲輪・ウェルディ長泉
二の曲輪・トーエイアドバンズ第1センター+国道246号線+駐車場
二の曲輪・「長久保城」由来と長久保城趾碑・国道246号線沿い
三の曲輪・北小学校
三の曲輪・『長久保城の空堀と土塁』碑
土塁・三の曲輪北端
空堀・三の丸北端
北の曲輪・南曲輪
北と南の曲輪を仕切る土塁・南曲輪
南の曲輪・南曲輪
城山神社参道口