駿河 横山城
Yokoyama castle
横山城跡【静岡県静岡市清水区谷津町2丁目】
【立地】平山城
【別称】興津城・興津横山城
【歴史】標高97m、比高52mの山頂一帯に築かれた平山城である。城の創成は定かでは
ない。当地は古くから国人興津氏代々の居城で、興津氏の起こり船越四郎大夫清房(駿河守
藤原晴信の子入江右馬允維清の嫡男)の嫡男四郎維道と云われる。今川氏が駿河国守護とし
て入部以来、被官となって各地で戦功を挙げた。延文年間(1356~1361年)興津美
作守、大永年間(1521~1528年)興津左衛門尉盛綱・彦九郎清房父子、興津美濃守
久信・藤兵衛尉正信父子、天文年間(1532~1555年)興津左衛門尉清房、興津美濃
守信綱の名がある。盛綱や清房は連歌師の宗長とも親交を重ね、宗長は『興津横山の城』で
連歌の会を催している。1562年正月、今川氏真は興津摂津守に知行地の遠江国浜野浦に
係留する新船の諸役を免除し、『海賊惣次』の際は櫓手役を務めるように命じており、興津
氏は海賊衆と商人の二面性を持っていたらしい。1568年12月武田信玄の駿河侵攻が始
まり、別軍は興津横山城を攻略し、本隊は駿府城を占拠した。信玄は横山城に穴山信君に江
尻城の支城として改修することを命じ、1569年2月に竣工。1569年正月、北条氏が
今川氏真を救援する為に駿河へ出陣し、興津川を望む薩埵連山に陣城を築くと、武田氏は興
津川を挟んで対峙した。4月になって苦境に陥り、武田軍は甲斐へ撤退するが、横山城の穴
山信君や久能城の板垣信頼に興津川の橋頭堡を堅持することを命じた。1582年3月江尻
城の降伏によって横山城も開城し、この後、廃城となる。現在は竹林、荒廃地、山林となり
、曲輪、堀切が残る。南麓の居館跡は蜜柑畑となり、土塁が残る。
【所感】登城口周辺に駐車スペースが無いので、私は興津川に架かる八幡橋の下、承元寺緑
地の駐車場〔トイレ有〕に車を止めました。先ず、南麓の居館跡を撮るために縄張図と比較
しながら小道を歩き、虎口らしき場所から居館跡〔蜜柑畑〕に入りました。左を目をやると
、お婆さんが蜜柑を収穫していたので、城跡について聞いてみました。以前は子供が登れる
ぐらい整備されていたようですが、高齢で誰も管理していないので、荒れ放題とのこと。私
もその荒れ具合を確認するために登城口へ向かいました。登城口から半分ぐらい上がった所
で倒木や蔓で道が塞がっていましたが、その先が見たくてそれらを交わし、とりあえず最初
の曲輪に着きました。お婆さんが話されていた通り、刈られた笹が足場を埋め尽くし、足を
取られながら奥へ向かうと、一つ上の曲輪は背丈ほど伸びた笹が隙間なく生い茂り、諦めて
ココで断念しました。登城道に戻り、西側の竹藪へ下りると、奥の方に土塁のようなものが
南北方向に横たわり、横堀のような感じになっていました。後から縄張図を見ると、ココが
通称『たてくぼ』と呼ばれる場所でした。もしかしたら別の場所から直登出来たのかもしれ
ませんが、とりあえず山城の遺構撮影はこれで終了。居館跡に戻ってお婆さんに現状をお話
したら、お土産に蜜柑をくれました。居館を囲んでいる土塁は内側からは分かりづらく、外
側に回り込むと段差がよく分かります。
登城口と城址碑と看板
荒れた登城道
最南の曲輪・荒廃地
最南の曲輪の西側・通称:たてくぼ
居館跡の虎口辺りか
外から見た居館跡の土塁