三河 田原城
Tahara castle

            田原市博物館【愛知県田原市田原町巴江11−1】
              巴江神社【愛知県田原市田原町巴江10】
              崋山神社【愛知県田原市田原町巴江12−1】
           田原中部小学校【愛知県田原市田原町殿町33】
               西円寺【愛知県田原市野田町神成30】
               長興寺【愛知県田原市大久保町岩下8】

日本福音ルーテルみのり教会田原礼拝所【愛知県田原市田原町殿町45−1】

【立地】平山城
【別称】巴江城・今宮城

【県指定史跡】

【田原藩】1601〜1871年

【歴史】応仁、文明の乱(1467〜1477年)の頃、一色義範の甥政照が守護代として
田原に居住した。碧海郡上野〔上野上村城〕居住の戸田弾正左衛門宗光〔〜1499年6月
19日〕は、1475年渥美郡大津村の大津城へ移る。1480年田原城を築いて移り、延
徳年間(1489〜1491年)頃から渥美半島の統一を目指した。1493年子の憲光〔
〜1513年11月1日〕へ田原城を譲り、宗光は二連木城を築いて移り、今川方の将が護
る船形山を占拠したが、掛川城代朝比奈泰以の出陣で討死した。2代憲光は今川の幕下に加
わり、3代政光〔〜1548年8月17日〕は東三河平野部を支配した。1526年家督を
継いだ4代康光〔宗光〕は、東三河へ侵攻する松平清康との敵対を避け、和睦した。153
1年「守山崩れ」で松平清康が討たれると、康光は吉田城を奪ったが、1546年今川義元
の攻撃で落城。1547年松平広忠は今川の人質として竹千代を駿河へ送ったが、康光・堯
光〔〜1547年9月5日〕父子が海路を変更して奪い、織田信秀へ渡した為、今川義元は
吉田城の天野景貫に命じて康光、堯光父子を討ち、天野・朝比奈・岡部の城代を置いた。1
560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、松平元康〔家康〕の三河統一が始まり
、吉田城攻略を経て、本多広忠を先鋒に田原城を攻撃して開城した。1565年本多広孝〔
1527〜1596年〕・康重〔1554〜1611年〕父子が入る。1590年家康関東
移封に伴い、田原は吉田城主池田輝政の所領となり、家臣の伊木清兵衛忠次が城代として入
る。1600年「関ヶ原の戦い」の後、池田輝政は播磨国姫路へ転封となり、1601年伊
豆国下田から戸田尊次が1万石で入り、田原藩を立藩。1615年忠能が襲封し、1630
年1万72石となる。1647年忠治が襲封したが、1664年2万石で肥後国富岡へ転封
となった。代わって三河国挙母から三宅康勝が1万2000石で入り、康雄−康徳−康高−
康之−康武−康邦−康友−康和−康明−康直と続き、1871年康保で廃藩。現在は田原市
博物館、巴江神社、護国神社、駐車場に変わり、曲輪、水掘、空堀、土塁、櫓台が残り、二
之丸櫓、桜門が復元されている。

【所感】本丸は巴江神社、二の丸は田原市博物館、三の丸は護国神社、出丸は崋山神社・崋
山会館になっています。復興された二の丸櫓・桜門は南に位置し、桜門横に田原城阯の石碑
、両脇には柝池・袖池が在ります。本丸−二の丸間には石垣で支持された土橋と両脇に空堀
が在りますが、往時、ここは入江で、谷に入り込む海水が巴状であったことから、巴江城と
呼ばれたそうです。藩校だった田原中部小学校の南、田原市報民倉横に惣門跡の石垣が残っ
ています。





本丸・巴江神社



二の丸・田原市博物館



二の丸櫓



三の丸・護国神社



三の丸・渡邉崋山之碑



桜門



柝池



袖池



井戸跡・本丸−二の丸間



土橋の石垣・本丸−二の丸間



空堀跡・本丸−二の丸間



出丸・崋山神社



権六池跡



じゃじゃ丸広場・権六池跡



藤田曲輪跡



藩校 成章館跡・田原中部小学校



惣門跡の石垣・田原市報民倉横



惣門跡の石垣・田原市報民倉横



平山邸跡の看板・日本福音ルーテルみのり教会田原礼拝所



報民倉跡の看板



田原城4代城主戸田康光公の供養塔・西円寺



初代戸田宗光ほか戸田家墓所・長興寺