信濃 高遠城
Takato castle

高遠城址公園【長野県伊那市高遠町東高遠】

【立地】平山城
【別称】兜山城・甲山城

【国指定史跡】高遠城跡・道徳館

【歴史】築城年、築城者は定かではない。古くは諏訪氏の支配下であったが、南北朝時代には高遠氏の
居城となる。1545年7代高遠頼継の時、武田信玄に攻撃で降伏し、1552年甲府にて自刃とする
。1547年信玄は、遠江攻略を目的に家臣山本勘助に築城を命じ、1556年秋山信友、1562年
武田勝頼、1571年武田信廉が城主となった。1581年仁科五郎盛信〔信玄の五男〕が入ったが、
翌1582年、信長の武田攻めで高遠城へ織田信忠軍5万の兵を送り込む。要塞堅固な城であったが、
3000の兵はことごとく討死し、盛信も自害した。〔高遠城の戦い〕武田家が滅亡すると、武田家家
臣保科正直が家康に属して城主となった。1590年家康関東移封に伴い、菅沼氏が下総国多胡へ移り
、代わって秀吉配下の毛利秀頼が伊那全郡10万石で再入封する。1593年京極高知が入り、高遠城
は城代が置かれた。1600年「関ヶ原の戦い」の後、正直の子保科正光が下総国多胡から2万500
0石で復帰。1618年徳川将軍家2代秀忠の庶子幸松の養育係を命ぜられ、5000石の加増を受け
た。1631年幸松は「正之」と名乗って保科氏の家督を継ぐ。1636年正之は20万石で出羽国山
形へ移り、山形から鳥居忠春が3万200石で入封。1663年忠春が没し、忠則が継いだが、謹慎中
に病没。その子忠英は能登国下村へ転封となり、1691年内藤清枚が3万9000石で入封。その後
、頼郷−頼由−頼尚−長好−頼以−頼寧と続き、頼直で明治を迎える。現在は高遠城址公園になってお
り、門、櫓、空堀、土塁、曲輪などが残り、全国的に有名な「桜の名所」である。

【所感】三峰川、藤沢川の合流点に在り、国道152号線から県道211へ入り、案内看板に従って5
0mで直ぐに左へ曲がって上ると、右手に高遠城址公園が在ります。1500本のコヒガンザクラは「
さくら名所百選」に選ばれ、「高遠の桜」という方が一般的かも知れません。城域は本丸、二の丸、三
の丸、南曲輪、法幢院曲輪、笹曲輪、武家屋敷、そして、勘助曲輪から成る広い縄張です。特に大河ド
ラマ「風林火山」のエンディングで紹介された勘助曲輪は、大きな看板と風林火山ののぼりでアピール
されています。高遠城跡の“見どころ”は、曲輪間に在る深く幅の広い空堀です。私の場合、これを見
て撮りに行っているようなものです。桜も終わった人もまばらな時期に行きましたが、桜の枝葉で曲輪
が覆われ、写真撮影が難しくなっていました。





本丸



本丸西端エリア・新城藤原神社

 

太鼓櫓・本丸南西角

 

本丸東端の土塁〔写真:左〕本丸南端の土塁〔写真:右〕



本丸東端の問屋門

 

桜雲橋



本丸−二の丸間の空堀と桜雲橋



笹曲輪



本丸−南曲輪間の空堀



南曲輪

 

本丸−南曲輪間の土橋〔写真:左〕南曲輪−法幢院曲輪間の白兔橋〔写真:右〕



南曲輪−法幢院曲輪間の空堀



法幢院曲輪



二の丸



二の丸東端の土塁



二の丸東側の空堀



元高遠城楼門・三の丸



三の丸



道徳館・三の丸

 

大手門跡〔写真:左〕搦手門跡〔写真:右〕



搦手門南側の空堀



勘助曲輪と武家屋敷跡・駐車場