琉球 玉城城
Tamagusuku castle

       玉城城跡【沖縄県南城市玉城字玉城444】
沖縄県立玉城青少年の家【沖縄県南城市玉城字玉城420】
   琉球ゴルフ倶楽部【沖縄県南城市玉城字親慶原1】

【立地】山城
【別称】玉グスク・アマッズグスク

【国指定史跡】玉城城跡

【歴史】標高178mの丘陵端に築かれた山城である。主郭内に神名『アガル御イベ、ツレ
ル御イベ』といわれる雨粒天次の御嶽がある。琉球国由来記に『阿摩美久、作リ給ウ』とあ
り、この記録を踏まえて『島尻郡誌』ではアマミキヨが築城、城主はアマミキヨの子孫とさ
れる。その後、英祖王統〔1260〜1394年〕の第4代玉城王が拠点とし、グスクの修
築・拡大を成したと伝えられる。玉城按司は玉城グスクを拠点に二男を大城グスク、三男を
糸数グスクに封じ、周辺一帯を治めていた。高嶺間切の世の主高嶺按司は玉城王以前、近隣
の諸按司を統率して自らを南山王大里按司と称し、権勢を振るっていた。南山グスクを拠点
とする大里按司は勢力の拡大を図るが、東部一帯を支配する玉城按司とその一族はこれに従
わない。激怒した大里按司は自身に忠誠を誓う按司と共に侵攻。玉城軍もグスク外に出て応
戦したが、大軍に押されて直ぐに籠城戦に切り替えたが、水を断たれて数日後に落城したと
云う。舜天王統3代目義本王〔1249〜1259年〕の頃、飢饉と悪疫が流行り、人民は
苦しんでいた。義本王は「治世の乱れは徳が無いが故に天から見放されたせいだ」と云い、
王位を摂政の英祖に譲った。そして、義本は『天つぎあまつぎ』といわれるう御嶽がある玉
城グスクへ行き、城内の薪を積み上げ、その上に座して臣下に火を付けるように命じた。義
本に燃え移ろうとしたせつな、一天にわかにかき曇り、たちまち大雨となった。焼死を免れ
た義本は臣下どもを引き連れて帰ることになった。1987年国指定史跡。現在は石垣、城
門跡が残る。

【所感】玉城城跡の駐車場〔入口〕はグスクロード沿いにあり、那覇ゴルフ倶楽部の南、沖
縄県立玉城青少年の家〔旧館〕の西に位置します。玉城城跡といえば岩をくり抜いた丸い城
門。この門が撮りたくて訪ねたようなところがあります。時間が無い中で、沢山のグスクを
回る為に拝所や石垣など隅々まで撮れていません。次回は予習をしっかり行い、時間を掛け
て撮りたいですね。









住居跡と墓か・一の郭



一の郭内の石積み



雨粒天次御嶽・天つぎあまつぎの御嶽〔神名:アガル御イベ、ツレル御イベ〕・一の郭











岩をくり抜いた一の郭の城門



二の郭





一の郭へ登る階段



拝所か・二の郭か





登城道・三の郭



玉城城跡碑・駐車場横・三の丸