伊勢 田丸城
Tamaru castle

                    田丸城跡【三重県度合郡玉城町田丸】
玉城中学校・村山龍平記念館・旧田丸城三の丸奥書院【三重県度合郡玉城町田丸114−1】
                   玉城町役場【三重県度合郡玉城町田丸114−2】
                   田丸保育所【三重県度合郡玉城町田丸114−3】

【立地】平山城
【別称】玉丸城

【県指定史跡】

【歴史】1336年伊勢に後醍醐天皇を吉野へ迎えるべく、伊勢に下った北畠親房が玉丸山
に城を築いて南朝方の拠点にしたと云う。一之瀬城を本拠に熊野海賊を支配していた愛洲太
郎左衛門を南伊勢の守護とし、弟愛洲三郎左衛門宗実が玉丸城を守るようになった。133
7年足利氏の将畠山高国が北伊勢の土豪らを集めて玉丸城を攻めたが、宗実がよく防戦して
北朝軍を破った。1339年後醍醐天皇が崩御すると、北朝軍の攻撃が頻繁となり、高師秋
や佐々木高氏を将とする軍勢が神山城を攻撃、玉丸城からも援軍が送られた。1343年仁
木義長・高師秋の軍勢が、神山城を落とした勢いで押し寄せ、玉丸城は終に落城となった。
以後も南北朝の争奪が繰り返されたが、1392年南北朝統一後、北畠氏の所有となり、応
永年間(1394〜1428年)、愛洲伊予守忠行が北畠司家三大将の一人として玉丸城主
となった。忠行は伊勢国司5代北畠政郷の庶子政勝〔顕晴〕を養子とし、政勝は玉丸を姓と
して玉丸御所と呼ばれた。1520年政勝の子国通〔親忠〕が家督を継いだが、1526年
家臣の山岡一党の池山伊賀守の叛乱に遭って自害、伊勢国司7代北畠晴具は伊賀守を山上城
〔山神城〕に攻めてこれを討った。国通の跡を養子国忠〔具勝・具忠〕が継ぎ、1571年
玉丸中務少輔直昌〔忠弘・具安・具直〕が城主となった。1575年北畠氏の養子となった
織田信長の次男信雄は玉丸城を改修して本城とし、名を玉丸城→田丸城と改名した。北の丸
・本丸・二の丸を設け、本丸に三重天守を築いたが、1580年放火により焼失、信雄は松
ヶ島城へ移った。1584年蒲生氏郷が松ヶ島城へ入り、田丸城は妹婿の田丸直昌が返り咲
いた。1590年蒲生氏郷・田丸直昌共に会津若松城へ移ると、田丸城は岩手城主牧村利貞
の支配となる。1600年「関ヶ原の戦い」の後、稲葉道通は戦功として2万石の加増を受
け、4万5700石で田丸藩を立藩。1607年道通没後、その子紀通が遺領を継いだが、
1616年摂津国中島へ転封となり、田丸藩は廃藩となる。1619年家康の十男頼宣が紀
伊国和歌山藩主になると、田丸は和歌山藩領となり、家老久野丹波守宗成が1万石で入って
後、久野氏が代々城代を務め、1869年廃城となる。現在は曲輪、石垣、空堀、水堀、土
塁、門などが残り、1991年旧三の丸御殿奥書院が復元されている。

【所感】田丸城跡の遺構は2つに大別されます。城山公園〔本丸・二の丸・北の丸、三の丸
(玉城中学校)〕と、城山公園東麓〔玉城町役場〕の大手門石垣と水堀〔田丸保育所・玉城
町役場・村山龍平記念館の東〕・復元された奥書院です。駐車場は玉城町役場にもあります
が、町役場から中学校脇を進んだ城山公園入口付近にも5、6台有ります。石垣が多いので
、そこばかり目が行ってしまいますが、各曲輪の枡形虎口、本丸−二の丸間の土橋、北の丸
の土塁・周囲の横堀、玉城町役場付近の石垣、田丸保育所・玉城町役場・村山龍平記念館の
東の水堀など見所がいっぱい。私の場合、1つ1つ遺構を確認しながら撮って3時間掛かり
ましたが、普通に歩いて見るなら30分ぐらいでしょうか。尚、三の丸は玉城中学校の敷地
となっているので、公衆トイレ以外は許可無く入らないように!





玉城町役場横の外堀



大手ニの門跡から見た大手門の石垣



復元 三の丸奥書院



大手二の門脇の内掘





大手二の門跡



蓮池跡・玉城中学校校舎北側



富士見門・長屋門



三の丸・玉城中学校校舎



金明水 銀明水・三の丸井戸水源・玉城中学校





本丸枡形虎口



本丸東内枡形虎口



天守台



本丸





本丸南西角櫓跡







本丸南外枡形虎口





本丸−二の丸間の掘







本丸−二の丸間の土橋







二の丸



二の丸枡形虎口



二の丸虎口



二の丸南面の石垣



二の丸南東角の石垣



二の丸南側の帯曲輪









搦手道





北の丸南側の堀





北の丸虎口





北の丸・城山稲荷神社



北の丸西端の土塁



北の丸東面の石垣



北の丸北面の石垣・空堀・土塁



北の丸北側の広い曲輪



二重堀の間の土塁



二重堀跡〔内側〕の池



二重堀跡〔外側〕