丹後 田辺城
Tanabe castle

     田辺城跡【京都府舞鶴市南田辺・北田辺】
   田辺城資料館【京都府舞鶴市南田辺15−22】
    明倫小学校【京都府舞鶴市北田辺128−1】
舞鶴ふるさと発見館【京都府舞鶴市北田辺51】

【立地】平城
【別称】舞鶴城・宮津城

【市指定史跡】田辺城趾

【歴史】1558年丹後国主となった一色義道は織田信長と不和になった将軍足利義昭を庇
護した為、信長と対立。1578年信長の命により細川藤孝・忠興父子は丹後に侵入して苦
戦するが、明智光秀の援軍、義道周辺の武将を味方に付けて、1579年義道を自害へ追い
込んだ。1580年細川藤孝〔幽斎〕・忠興父子を丹後国を与えられ、宮津の八幡山に本城
を築いたが、同年田辺にも藤孝の隠居所として築城。1583年着工、1584〜1585
年に完成した。天守・本丸を二の丸、三の丸が囲む輪郭式の平城、東に伊佐津川、西の高野
川、南に湿地、北に海に面する要害の地に築かれ、城下町の原型も細川時代に築かれた。1
600年細川忠興は徳川家康の「会津征伐」に従い、父藤孝は田辺城の留守を預かったが、
西軍の攻撃で開城となった。この時、藤孝は本城の宮津城を焼き、守りに固い田辺城で50
0の兵で籠城の態勢をとったが、両軍の和議で籠城戦は終結。細川忠興は豊後国中津39万
石→豊前国小倉へ移った。1601年信濃国飯田から京極高知が12万3200石で田辺藩
を立藩し、田辺城三の丸を拡張して家臣団を集住させた。1622年8月高知没後、遺領を
嫡男高広7万8200石:宮津城、次男高三3万5000石:田辺城、養子高通1万石:峰
山陣屋に分与され、丹後国で新たに三藩が立藩した。1636年9月京極高三が没し、高直
−高盛と継がれ、1663年高盛は弟高門に1000石を分与し、1668年但馬国豊岡に
転封となる。京極氏転封後、京都所司代の要職を退任した牧野親成が河内国高安から3万5
000石で入封。1673年親成が致仕した後、富成〔奏者番〕−1693年英成〔奏者番
・寺社奉行・京都所司代〕−1737年明成〔奏者番〕−1750年惟成〔奏者番・寺社奉
行〕と続き、1783年宣成の代、天明年間(1781〜1789年)藩校(明倫館)明倫
斎を創設。1804年以成の代、1808年ロシア船来航事の海防を策し、1825年異国
船打ち払いの為の大筒仕掛場8ヶ所を定めた。1825年節成−1852年誠成−1869
年弼成は藩名を『舞鶴』とし、6月版籍奉還して知藩事に任ぜられ、1871年廃藩置県、
1873年廃城、1874年破却される。1940年二重二階の模擬櫓『彰古館』復興、1
965年舞鶴市指定史跡となり、1992年田辺城資料館『大手櫓門』が復興された。現在
は舞鶴公園となり、石垣、堀、移築城門が残る。

【所感】田辺城はリアス式海岸の舞鶴湾・西舞鶴に在って、波が穏やかことから敦賀・小浜
・宮津と同様に海運・貿易の町です。復興された櫓門や隅櫓は場所も形も違いますが、城跡
らしい雰囲気を出しています。天守台や石垣の一部が残り、近くにお寺に移築門も有ります
ので、宮津城跡や小浜城跡、福知山城跡とセットで訪ねると良いでしょう。








二重二階 模擬櫓・彰古館





彰古館内部



彰古館と大手門







模擬大手門



大手門内部・田辺城資料館



本丸井戸跡





天守台



移築 藩校『明倫館』表門・明倫小学校