美濃 垂井城
Tarui castle

垂井城跡【岐阜県不破郡垂井町】
 専精寺【岐阜県不破郡垂井町1349】
 永法寺【岐阜県不破郡垂井町1360】
 玉泉寺【岐阜県不破郡垂井町1351−1−1】


【立地】丘城
【別称】長屋氏屋敷

【歴史】築城年は定かではない。今須長江氏と同族長屋氏の居城である。長江義景の次男明
義→胤明、次の行景が長屋氏の祖となり、その子景頼が相模国→美濃国垂井へ移住。景頼の
子宗秀は美濃国守護土岐氏に属しながら、将軍に仕えたと云う。宗秀→宗房→景家→景国→
景森は将軍足利義教に仕え、嘉吉年間(1441〜1444年)京都に住んだ。子の景元は
土岐氏9代守護政房に仕え、垂井に住む。景教の子景興は大野郡相羽城へ移り、土岐氏に属
して2万石を領有する。1547年土岐頼芸が没落しても斎藤道三に従わず、攻められ、同
年12月11日景興・景直父子は戦死した〔景興は逃れたとも〕。景興の弟景重は垂井に居
たが、その後は不明。1600年平塚為広が入る。豊臣秀吉の家臣平塚為広は、1584年
「小牧・長久手の戦い」、1590年「小田原征伐」に従軍して戦功を挙げた。1592年
「文禄の役」では肥前名護屋城に駐屯。1595年7月5000石に加増〔3000石とも
8000石とも〕。1598年3月秀吉の醍醐花見の時、側室三丸殿に随従、8月秀吉の遺
物として金5枚を受領、1600年美濃国垂井1万2000石を得た。「関ヶ原の戦い」で
は大谷吉継の使者として佐和山の石田三成を訪れ、挙兵を諫めたが、容認されず吉継と共に
西軍に属した。「伏見城攻め」に参戦し、9月15日藤川に布陣し、吉継に代わって軍を指
揮して小早川秀秋の動静を監視した。秀秋は東軍に寝返り、よく防戦したが戦死。現在は住
宅、寺に変わり、石碑のみが立つ。


【所感】岐阜県中世城館跡総合調査報告書に「長屋氏屋敷跡(垂井城跡)」と書かれてあり
、場所は「長屋氏屋敷の跡」の石碑を中心とする東西140m、南北70〜100mのエリ
ア。北は中山道垂井宿、相川、西に支流の前川が流れている。長屋氏屋敷=垂井城とも云わ
れるが、専精寺辺りも垂井城の推定地と云われており、専精寺駐車場に城跡碑が立っている
。周辺より土地が高く、湧水も豊富〔玉泉寺〕で居城とするには良い場所。関ヶ原の合戦で
は、城の南側一帯に西軍の池田輝政・吉川広家・安国寺恵瓊が布陣している。一時的なもの
か、数年存在したが分からないが、長屋氏屋敷とは違う垂井城が存在したかもしれない。




垂井城跡碑・専精寺



垂井之泉・玉泉寺



長屋氏屋敷跡碑