安房 館山陣屋
Tateyama Jinya


館山陣屋跡【千葉県館山市館山】

【立地】平地

【歴史】館山藩は戦国期以来の外様大名里見氏と、近世中期に入封した譜代小藩稲葉氏の領
有地である。室町時代に安房国に入った里見氏は義尭の時に戦国大名に成長し、越後上杉謙
信と結び、後北条氏に対抗して安房から上総・下総まで侵出したが、後北条氏の圧力により
後退した。義尭の孫義康の時、1590年秀吉の「小田原征伐」に参戦したが、遅参のため
上総国没収、安房一国となった。これを機に支城としていた館山城を修築して本拠を移し、
秀吉配下の大名として安房国9万2000石を領有した。1600年「関ヶ原の戦い」で東
軍で参戦、戦後の論功行賞により常陸国鹿島郡内で3万石を加増され、12万2000石と
なる。1603年義尭が没し、跡を継いだ忠義は大久保忠隣の孫娘を室としたが、1614
年大久保忠隣改易事件に連座して安房国没収、館山城は破却された。忠義は伯耆国倉吉に移
され、1622年で没し、里見家は断絶。近世中期に入封した稲葉正明は、初め10代将軍
徳川家治の小姓となり、小姓組番頭格・御側申次と進み、田沼意次父子と共に家治政権下で
権勢を振るっていた。1781年3000石の加増を受け、安房国安房・長狭・平、上総国
長柄4郡内で1万石を領して立藩し、1785年更に3000石を加増されたが、1786
年徳川家治没後、3000石没収、出仕を止められた。その子稲葉正武は、1789年襲封
、1791年館山に陣屋を建設した。正盛を経て、正巳は若くして家を継ぐが、英明で、将
軍慶喜に引き立てられ、若年寄・陸軍奉行・老中格・海軍総裁などを歴任。幕府海軍の建設
や対外問題などで活躍。1864年養子〔岩槻藩主大岡忠恕の次男〕の正善が継ぐ。186
8年旧幕府軍艦を率いた榎本武揚が館山湾に来航、陸からは旧幕軍・上総請西藩連合軍も進
駐し、更に官軍鍋島藩兵も進入、館山藩は苦しい立場に立ったが、前藩主稲葉正巳が藩論を
まとめて恭順の意を表し、危機を乗り越えた。1869年正善は館山藩知事、1871年7
月に館山県知事となり、11月木更津県に編入された。現在は住宅となり、井戸が残る。

【所感】場所はグーグルで「館山藩陣屋跡」と示している貴美稲荷神社跡も含めた30軒弱
の住宅になります。地元の方にお話を聞き、井戸の場所も教えて頂きました。災害の影響で
館山城から降りて来る道が塞がっていたので、一旦、駐車場に戻り、車で来ました。






貴美稲荷神社跡



館山陣屋跡・住宅地




采女井戸