播磨 龍野古城
Tatsuno old castle
龍野古城跡【兵庫県たつの市龍野町北龍野】
龍野城跡【兵庫県たつの市上霞城128−1】
龍野歴史文化資料館【兵庫県たつの市上霞城128−3】
【立地】山城
【別称】鶏籠山城・朝霞城・台山城・霞城
【歴史】1499年頃、鶏籠山〔標高214m、比高170m〕に築かれた山城で、塩屋城
主赤松下野守政秀が幼い村秀の為に築城し、1507年以降、塩屋城(たつの市御津町)か
ら龍野城へ移り、初代城主になったとされる。1540年初代村秀は病没、1570年2代
下野守政秀は毒殺により没した。1570〜1576年弥三郎広貞が3代城主となり、15
77年秀吉の『中国攻め』が始まると、家臣らは16歳の4代城主広英〔弥三郎・孫二郎広
秀・斎村左兵衛広通〕を佐江村に退去させ、戦わずして開城、赤松氏の時代は終わった。1
581年蜂須賀小六正勝・家政が5万3000石で入り、1582年『山崎の戦い』、15
83年『賤ヶ岳の戦い』、1584年『小牧・長久手の戦い』で活躍するが、1586年正
勝は大坂で没し、家政は阿波国17万5700石へ移った。その後、1585年福島正則5
万石−1587年木下勝俊6万石−1594年小出吉政2万1520石−1595年豊臣直
轄領〔代官:石川紀伊守光元〕と続く。1600年『関ヶ原の戦い』後、池田輝政が三河国
吉田15万2000石→播磨国姫路52万石へ入り、龍野城代は荒尾成房、1613〜16
17年池田長明が城代を勤めた。1617年姫路城主3代池田光政が因幡国鳥取32万50
00石へ移ると、代わって上総国大多喜から本多政朝が播磨国龍野5万石で入封し、龍野城
を築いて龍野藩を立藩した。1626年姫路藩主本多忠政が没した為、弟政朝が姫路へに移
り、忠政の孫小笠原長次が龍野6万石で入封。1632年長次は2万石の加増を得て、豊前
国中津へ転封となり、龍野は幕府直轄領となった。龍野古城の廃城は本多政朝・小笠原長次
の時期と思われる。1633〜1636年岡部宣勝→幕府直轄領→1637〜1658年京
極高和→幕府直轄領となる。現在は山林となり、曲輪、横堀、堀切、石垣が残る。
【所感】登城口は龍野城跡の西門近く、防獣柵の扉を入るところから始まります。登城道は
所々に丸太段が設けられ、『鶏籠山熊野古城』→『古城大手道』→『鶏籠山国有林の森林』
などの看板を経て、最後、右手の『土塁跡』看板が横堀へ、左手の『古城への道』看板が二
の丸へ続く道です。横堀は三日月形の窪み、外側に土塁のような囲みがあり、深さが感じら
れる良好な遺構です。この横堀が城郭の南端で、その上に大小異なる7段郭が『二の丸』ま
で続いています。二の丸の平坦度は高く、縄張絵図に描かれている石積みが一部残り、周辺
には崩れた石が散見されます。『二の丸』から先へ進むと、右→左へ折れるクランクした虎
口が在り、3段郭の上に『本丸』が在ります。ここも平面度が高く、周りには『二の丸』以
上に石が多く散在し、石積みも北側・東側に見られます。『本丸』から北へ降りると、『八
幡宮跡』『石だたみ』、東側に『古城階段』が在ります。『竪堀の跡』の看板が立つ北端の
堀切へ向かう道は、右→左へ切り返す下り坂になっています。龍野古城跡は2つの頂を利用
した全長700mの連郭式城郭。曲輪を囲む土塁は無く、曲輪の数で防御性を高め、収容人
数を稼ぐ城のようです。『本丸』『二の丸』以外にも段郭に多くの石が見られることから、
建物の基礎や要所要所で使われた可能性を感じました。杉が植えられていない自然木の古城
跡、遺構の状態は良いので、南麓の龍野城跡とセットで訪ねると良いでしょう。
龍野古城跡登城口
登城道
城郭南端の横堀
二の丸南7段下の曲輪・横堀の上の曲輪
二の丸南6段下の曲輪
二の丸南5段下の曲輪
二の丸南4段下の曲輪
二の丸南3段下の曲輪
二の丸南2段下の曲輪
二の丸南1段下の曲輪
二の丸(南城・前城)
二の丸北1段下の曲輪
二の丸−本丸間の長い平坦地
クランク虎口
本丸南3段下の曲輪
本丸南2段下の曲輪
本丸南1段下の曲輪
本丸石垣
本丸(北城・後城)
本丸の北端付近の石垣
本丸北1段下の曲輪・八幡宮跡
本丸北1段下の曲輪・八幡宮石だたみ
本丸東側の石垣と古城石段
本丸東2段下の曲輪
本丸北2段下の曲輪と石垣
本丸北3段下の曲輪・堀切の上の曲輪
本丸北3段下の曲輪から堀切へ下る道
城郭北端の堀切