徳川家康 とくがわ いえやす 1542〜1616年
竹千代・二郎三郎・元信・元康・家康・従五位下・三河守・左京大夫・従五位上・侍従正五位下・従四位下
右近衛権少将・従四位上・正四位下・左近衛権中将・従三位・参議・権中納言・正三位・従二位・権大納言
左近衛大将左馬寮御監・正二位・内大臣・従一位・右大臣・征夷大将軍・太政大臣・贈正一位
芳名東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士・芳名安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
父…松平広忠 母…於大の方(水野忠政の娘)
妻…正室:築山殿(清池院・関口義広の娘・今川義元の姪)継室:朝日姫(南明院・豊臣秀吉の妹)
  側室:西郡局(西郡の方・鵜殿長忠の娘)小督局(お万の方・長勝院・町医者?神主?の娘)
     西郷局(お愛の方・お丁の方・竜泉院・宝台院・戸塚忠春の娘)
     茶阿局(茶阿の方・お久の方・朝覚院・花井某の娘)お亀の方(相応院・竹腰正時の妻・清水宗清の娘)
     蔭山殿(お万の方・養珠院・正木邦時の娘)阿茶局(お須和の方・雲光院・飯田直政の娘)
     お八の方(お勝の方・お梶の方・お勝・英勝院・江戸但馬守の娘・太田康資の養女)
     お竹の方(良雲院・市川昌永の娘)お六の方(養儼院・黒田直陳の娘)
     お牟須の方(正栄院・三井吉正の娘)下山殿(妙真院・お都摩の方・秋山虎康の娘)
     お奈津の方(お夏の方・清雲院・長谷川藤直の娘)お梅の方(蓮華院・青木一矩の娘)
     お仙の方(泰栄院・宮崎泰景の娘)、胡茶局、大橋局ほか
兄弟…異母弟:家元、内藤信成、忠政、樵臆恵最 異母妹:市場姫 異父弟:康元、康俊、康勝
子供…長男:松平信康(築山殿の子)二男:結城秀康(小督局の子)三男:徳川秀忠(西郷局の子)
   四男:松平忠吉(西郷局の子)五男:武田信吉(下山殿の子)六男:松平忠輝(茶阿局の子)
   七男:松平松千代(早世・茶阿局の子)八男:平岩仙千代(早世・お亀の方の子)
   九男:徳川義直(お亀の方の子)十男:徳川頼宣(蔭山殿の子)十一男:徳川頼房(蔭山殿の子)
   長女:亀姫(築山殿の子・奥平信昌の妻)二女:徳姫(西郡局の子・北条氏直、池田輝政の妻)
   三女:振姫(お竹の方の子・蒲生秀行、浅野長晟の妻)四女:松姫(早世・お八の方の子)
   五女:市姫(早世・お八の方の子)ほか
1542年 〔1歳〕12月26日岡崎城主松平広忠と正室於大の間に嫡男として生まれる。幼名竹千代
1544年 〔3歳〕9月水野信元(於大の兄)が織田信秀に随身して、今川家に背いた為、広忠、於大と離別。
1547年 〔6歳〕この年、広忠、駿河今川義元のもとに竹千代を人質として差し出すが、その途中、田原城主戸田康光に
          よって奪われ、尾張の織田信秀のもとへ送られる。
1549年 〔8歳〕3月10日松平広忠、家臣の岩松八弥に暗殺される。(24歳)
          11月9日竹千代と今川の捕虜となっている織田信広(信長の庶兄)との人質交換になり、岡崎へ帰る
          が、12月、再び人質として駿府の今川家に向う。以後、19歳までの12年間、人質生活を送り、多
          くの逸話がある。
1555年〔14歳〕3月竹千代、元服し、松平二郎三郎元信となる。
1557年〔16歳〕1月15日義元の姪関口義広(親永)の娘瀬名(築山殿)を娶る。
1558年〔17歳〕2月5日義元の命で三河寺部城を攻め、追撃してきた織田軍を潰走させる。岡崎衆勇戦し、主君の初陣
          を飾る。
1559年〔18歳〕この年、長子信康が生まれる。
1560年〔19歳〕5月12日義元の先鋒として駿府を発し、18日尾張大高城に兵糧を運ぶ。5月19日義元、田楽狭間
          に織田信長の奇襲にあって討たれる。この春、信長と和し、9月西三河平定する。
1562年〔21歳〕1月尾張清洲城で盟約を結ぶ。9月29日今川軍を敗る。
1563年〔22歳〕3月2日長子信康と信長の娘徳姫の婚約成る。7月6日家康と改名。この秋、三河に一向一揆が起こり
          、自ら鎮圧に乗り出す。
1564年〔23歳〕2月岡崎城を攻めた一向宗門徒を平定する。6月22日酒井忠次に吉田城を守らせる。
1565年〔24歳〕3月7日三河奉行を設置し、本多重次、高力清長、天野康景は任ぜられる。この年、側室鵜殿氏に督姫
          が生まれる。
1566年〔25歳〕12月29日朝廷より、徳川姓が許され、同時に従五位下三河守に叙任される。
1567年〔26歳〕5月27日信康と督姫の婚儀が行われる。
1568年〔27歳〕12月武田信玄の駿河進出と同時に家康の遠江に侵攻。18日曳馬城(浜松城)に入る。27日掛川城
          を包囲する。
1569年〔28歳〕5月掛川城を落し、今川氏真、伊豆の北条氏政を頼る。石川家成に掛川城を守らせ、遠江の平定ほぼ終
          わる。この月、大井川巡視中の家康を武田軍が不意に襲撃する。信玄への不信高まる。7月遠江見附の
          問屋12名に枡座を結成させ、公定の枡を定める。
1570年〔29歳〕2月25日織田信長の上洛に随行。3月17日将軍足利義昭、家康旗下の乗馬を見物する。4月信長の
          朝倉征伐に従って出京、越前手筒山城を攻める。6月岡崎城を嫡子信康に譲り、浜松城に移って遠江の
          新たな本拠地とする。27日兵5千を率いて、近江姉川畔竜ヶ鼻に布陣。28日姉川の合戦。織田・徳
          川連合軍が浅井・朝倉軍を敗る。10月8日上杉輝虎と盟約して、武田信玄と絶交する。
1572年〔31歳〕12月22日三方ヶ原の戦い。武田軍ほぼ2万5千を遠江三方ヶ原に迎え撃ったが、徳川・織田連合軍
          大敗し、家康、浜松城へ命かながら逃げ帰る。
1573年〔32歳〕2月26日上杉謙信に新春を賀して、太刀を贈る。4月12日武田信玄急死する。7月家臣の本多忠勝
          榊原康政らに命じて、武田軍の三河侵略の拠点、長篠城を攻めさせる。8月作手城主奥平貞能、信昌父
          子、武田勝頼に背いて家康に内応する。家康は長女亀姫を信昌に嫁がせることを盟約。9月10日長篠
          城を落す。21日奥平父子、武田勢を三河滝山に敗る。
1574年〔33歳〕2月8日側室お万の方に二男秀康が生まれる。4月6日武田の属城遠江犬居城を攻めるが、大雨のため
          撤退。5月武田勝頼の大軍、遠江高天神城を包囲し、織田信長、救援のため岐阜を発するが、6月17
          日落城の報に接し、引き返す。
1575年〔34歳〕4月5日近臣大賀弥四郎が武田に内通していたことで、処刑される。5月21日長篠の戦い。武田騎馬
          隊1万5千に対し、徳川連合軍8千、織田軍3万の兵で、設楽ヶ原の決戦が展開、織田・徳川連合軍が
          大勝して、勝頼6騎で甲斐へ逃げ帰る。以後、勝利の余勢をかって武田方諸城を落し、三河・遠江の両
          国をかなり回復する。
1576年〔35歳〕4月7日側室西郷氏お愛の方に三男秀忠が生まれる。7月長篠城の奥平信昌が新城へ移り、かねての約
          束通り亀姫を嫁がせる。この年信康の計画で、家康は岡崎城で初めて秀康と会見、正式に二男とする。
1577年〔36歳〕8月25日武田勝頼2万の兵を率いて、遠江横須賀へ出兵。信康と共に出陣して武田勢を退去させる。
          12月10日従四位に進み、右近衛権少尉に任ぜられる。
1578年〔37歳〕1月18日信長を招待して吉良で鷹狩りを楽しむ。この年、守勢から攻勢に転じ、たびたび武田の属城
          を攻める。
1579年〔38歳〕4月7日側室西郷氏お愛の方に四男忠吉が生まれる。7月16日信長、信康の処断を命ずる。8月29
          日岡本平右衛門に命じて、正室築山殿を遠江富塚で殺害する。9月15日信康、二俣城で切腹する。
1580年〔39歳〕この年、たびたび遠江横須賀の高天神城を攻める。
1581年〔40歳〕3月22日高天神城ついに落城、城兵の首数688。遠江を平定。
1582年〔41歳〕3月1日江尻城の穴山梅雪、内応する。11日勝頼、天目山麓で自刃、武田氏滅ぶ。29日信長より駿
          河を与えられ、嘗ての今川義元と同じ駿河、遠江、三河の大名となる。5月19日安土ハ見寺で梅若太
          夫の能を見物し、21日京都へ入り、29日堺で松井友閑の饗応をうける。6月2日本能寺の変を聞き
          、急遽、伊賀越えで岡崎へ帰る。
1583年〔42歳〕1月18日尾張国星崎で織田信雄と会見。閏1月14日武田旧臣に旧領を安堵する。5月21日羽柴秀
          吉に初花の小壷を贈り、戦勝を祝する。8月6日秀吉より、太刀を贈られる。9月13日側室下山の方
          に五男信吉が生まれる。12月13日一向宗の復活を許す。
1584年〔43歳〕2月23日従三位、参議に叙任される。3月6日織田信雄、家康と共謀して、秀吉に通じていた尾張国
          星崎城岡田重孝、尾張国苅安賀城主浅井田宮丸を殺害し、秀吉と絶交する。7日信雄救援のため、浜松
          を出立し、9日尾張へ入る。13日信雄と清洲城で会見。15日小牧山へ登り、堀を深めて本陣とする
          。17日先鋒酒井忠次、奥平信昌ら、尾張国羽黒の森長可を敗る。28日秀吉、楽田に陣し、家康、清
          洲から小牧山に入って対峙する。4月9日家康軍、長久手の戦いで大勝する。5月1日秀吉軍撤退。
          11月12日秀吉と信雄の和議なる。12月12日第二子於義丸(秀康)を養子として秀吉へ送る。
1585年〔44歳〕1月17日佐竹義重、家康に秀吉との講和を祝す。11月13日重臣石川数正が秀吉へ出奔する。
1586年〔45歳〕2月8日秀吉との和議なる。4月11日秀吉の妹朝日姫を正室とすることを約す。16日朝日姫と婚儀
          を行う。9月26日秀吉、大政所を人質に送ることを約し、家康の上洛を促す。10月18日大政所、
          人質として岡崎に到着。10月24日家康上京して茶屋四郎次郎の館に入る。26日大坂に赴き、羽柴
          秀長邸に宿す。当夜、秀吉来訪。27日大坂城に於いて秀吉と会う。11月5正三位を叙せられる。8
          日出京して、11日岡崎に帰る。12日大政所を大坂に送り届ける。12月4日居城を駿府城へ移す。
1587年〔46歳〕2月13日駿府城の修築が一応完成する。8月5日入京して秀吉に謁し、九州平定を賀す。8日従二位
          大納言に叙任される。
1588年〔47歳〕3月18日上洛。29日秀吉と京都近郊で鷹狩りをする。4月14日後陽成天皇、聚楽第に行幸。15
          日諸大名と共に秀吉に絶対服従の誓紙を差し出す。5月14日駿府城の天守閣完成する。6月23日大
          政所の病気見舞いのため、朝日姫を伴って上洛する。8月22日北条氏規を秀吉に引き合わせる。
1589年〔48歳〕2月13日信州上田城の真田昌幸と講和を結び、昌幸の長子信之が人質として送られる。5月19日側
          室お愛の方(西郷氏)、駿府で没する。(28歳)7月7日年貢、夫役に関する七か条の定書を領内の
          郷村に分布する。8月27日秀吉の命を受けて、方広寺大仏殿の木材を求め、富士山麓から甲斐国新府
          へ赴く。12月10日秀吉に小田原征伐の相談を受ける。
1590年〔49歳〕1月14日朝日姫、聚楽第で没する。(48歳)4月3日秀吉の小田原攻めの先鋒として多古に陣を取
          る。15日織田信雄、家康、北条方に内通するとの噂立つ。秀吉が訪ねる。4月秀吉より伊豆国を与え
          られる。7月5日小田原城開城する。10日同城へ入城する。13日秀吉、小田原城に入城して、家康
          の関東移封を公表する。8月1日江戸城に正式に入る。
1591年〔50歳〕1月5日奥州出陣のため、江戸城を出発して岩付に着陣、13日中止して江戸に帰る。6月15日おこ
          り病を発する。7月19日奥州の九戸政実の乱鎮圧のため、江戸を出立。8月6日二本松に着陣し、蒲
          生氏郷、伊達政宗らと軍議を行う。
1592年〔51歳〕1月4日側室茶阿の方に六男忠輝が生まれる。2月1日諸士に知行を行う。3月17日肥前国名護屋に
          す下向るが、朝鮮渡海を免れる。5月秀吉の朝鮮渡海の決意を前田利家らと共に強く諫止する。6月1
          1日秀吉の命により、林茂右衛門に大船の建造を命ずる。9月江戸城の大規模な普請進む。
1593年〔52歳〕2月12日分国の諸将に命じて鉄板を造り、名護屋へ運ばせる。4月21日朝鮮在陣の伊達政宗を慰問
          。5月15日明の使者謝用梓・徐一貫の接待を秀吉に命ぜられる。8月29日名護屋より大坂に帰陣す
          る。閏9月22日秀吉の伏見城茶会に招かれる。10月26日江戸へ帰る。30日諸士を江戸城へ集め
          、饗応する。この年、儒学者藤原惺窩を招いて貞観政要を講じさせる。御前講議のはじめとされる。
1594年〔53歳〕1月秀吉の伏見城普請命令により、江戸城修築を中止する。3月2日入京し、14日伏見城の工事現場
          を視察。5月3日柳生但馬守宗厳から新陰流兵法の奥儀を伝授される。12月27日娘督姫と吉田城主
          池田輝政の婚儀成立。この年、側室お亀の方に七男仙千代が生まれる。
1595年〔54歳〕7月毛利輝元・小早川隆景と三人連署して、秀吉とその子秀頼へ忠節を誓って五か条の起請文を呈出。
          11月20日淋病を患う。この年、茶阿の局に八男松千代が生まれる。この年、京都大判座の後藤光次
          を江戸に呼び、武蔵墨書小判を鋳造させる。
1596年〔55歳〕5月11日正二位内大臣に進む。12月28日娘振姫と蒲生秀行の結納を行う。
1597年〔56歳〕3月11日秀吉主催の醍醐の花見に招かれる。5月7日吉田兼見邸を訪ねる。この年、山科言経と交遊
          盛ん。
1598年〔57歳〕7月15日秀吉の命により、諸大名は家康と前田利家に血判の誓書を呈して、秀頼への忠誠を誓う。8
          月5日家康と五奉行、誓書を交換する。6日家康ら、秀吉の枕頭に招かれ、死後のことを託される。2
          5日家康、利家、秀吉の死を秘し、朝鮮在陣の諸大名の撤退を命ずる。
1599年〔58歳〕1月10日秀頼の大坂城居城を供奉する。19日前田利家と五奉行に秀吉の遺命に背いて伊達家等と婚
          姻を結んだことを咎められる。閏3月3日前田利家の死去により、家康と豊臣の遺臣間の対立が先鋭化
          する。4日加藤清正等、石田三成の殺害を図るが、三成は伏見に走って家康を頼る。13日伏見の邸か
          ら伏見城西之丸へ移る。9月28日大坂城西之丸へ移る。
1600年〔59歳〕1月1日諸大名、秀頼・家康に年頭の挨拶をする。3月16日先に豊後に漂着したオランダ船リーフデ
          号の航海長ウィリアム=アダムス、高級船長ヤン=ヨーステンらを大坂城で引見する。4月1日会津の
          上杉景勝に上洛を促す。5月3日会津討伐のため、諸大名に出兵を命ずる。17日前田利長、率先して
          生母を質して家康に送る。6月2日大坂城で奥州出陣の軍議が行われる。16日大坂城を発する。7月
          21日江戸から出兵。この間、石田三成ら西軍が挙兵し、8月1日伏見城落城。5日秀忠を宇都宮に留
          め、江戸城に帰る。9月1日江戸を発して西上する。9月15日関ヶ原の戦い。西軍大敗する。27日
          大坂城へ入り、秀頼に会う。10月1日石田三成、小西行長らを京都六条河原で斬り、首をさらす。5
          日諸大名の論功行賞を行う。
1601年〔60歳〕1月東海道の伝馬の制を定める。2月譜代家臣の加増・転封が大々的に行われる。3月23日大坂城よ
          り伏見城に移る。5月伏見に銀座を置き、金銀貨幣の改鋳を行う。11月2日江戸大火。
1602年〔61歳〕1月秀忠を関東に於いて20万石を与える。3月7日お万の方に十男長福丸が生まれる。14日大坂に
          赴き、秀頼に年頭の挨拶をする。5月1日参内する。この日、諸大名に二条城造営の手伝いを命じる。
          6月24日江戸城中に文庫を建て、金沢文庫を移す。8月28日於大の方、伏見城で没す。(75歳)
1603年〔62歳〕1月28日九男五郎太丸義直(4歳)を甲斐国25万石に封ずる。2月8日大坂城に赴き、秀頼に年頭
          の挨拶をする。12日征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。4月長崎奉行を設置する。7月28日
          秀忠の娘千姫(7歳)、大坂城の秀頼(11歳)のもとに入輿。8月10日お万の方に十一男頼房が生
          まれる。11月7日長福丸頼宣(2歳)に水戸20万石を与える。この年、江戸の町割が大々的に改変
          される。
1604年〔63歳〕2月4日東海・中仙・北陸の三道に一里毎の目印の一里塚をつくり、榎を植えさせる。5月3日糸割符
          定書が下される。7月17日江戸城で秀忠の第二子竹千代(家光)が生まれる。閏8月24日島津忠恒
          にシャム渡海の朱印を渡す。同月、ルソン国王の使者を引見する。
1605年〔64歳〕4月16日征夷大将軍を秀忠に譲る。秀忠、内大臣を兼ね、正二位に徐せられる。5月10日秀頼の上
          京を促したが、淀殿の反対で実現せず。
1606年〔65歳〕3月1日江戸城増築工事始まる。20日駿府を巡察し、隠居城を築くための城地選定をする。
1607年〔66歳〕3月5日第四子松平忠吉没す。8日林羅山、儒官となる。閏4月8日第二子結城秀康没す。6月20日
          角倉了以に舟役朱印状を与える。7月3日駿府城へ移る。12月22日駿府城に火災。23日本多正純
          邸に移る。この年、女歌舞伎のお国、江戸で踊る。
1608年〔67歳〕3月11日駿府城へ移る。8月18日秀忠、祝賀に来る。20日勅使、太刀・馬代等を下賜。11月2
          2日家康の奏請によって江戸城増上寺を勅願寺とする。
1610年〔69歳〕1月11日角倉了以、平野屋孫左衛門らに渡海朱印状を与える。2月名古屋城築城の助役を前田利常、
          毛利秀就、黒田長政ら諸大名に命ずる。8月14日島津家久に伴われた琉球王尚寧を駿府城で謁見。
1611年〔70歳〕3月28日二条城で秀頼と会見。最初の盃を家康がほした。
1612年〔71歳〕3月岡本大八事件が起こる。21日大八を火刑にし、肥前の有馬晴信流刑に処せられる。同日、キリス
          ト教を禁止し、京都に於けるキリスト教寺院の破却を命ずる。
1613年〔72歳〕6月16日公家衆法度五か条を定める。8月28日七か条の覚書をイギリス船司令官に渡し、通商を許
          可する。12月3日小田原城主大久保忠隣の異心ありとの訴えに急遽帰城する。
1614年〔73歳〕7月21日京都方広寺の鐘銘について、豊臣家と紛糾する。26日大仏殿の上棟と開眼供養、堂供養の
          延期を命ずる。9月18日片桐且元、徳川と豊臣間の平和のために奔走する。10月1日大坂討伐を決
          意、諸大名に出陣を命ずる。10〜12月大坂冬の陣、12月19日和議なる。
1615年〔74歳〕1月7日秀忠、大坂城二之丸の堀を埋める状況を報告。3〜5月大坂夏の陣。5月7日両軍が激突して
          大坂方が大敗する。千姫は脱出して、秀頼の母子の助命を嘆願する。8日秀頼、淀殿、大坂城中で自殺
          する。二条城に凱旋する。10日諸大名を二条城に引見する。その直後、元和一国一城令を発す。7月
          7日武家諸法度十三か条を下す。17日禁中並公家諸法度を定める。12月16日駿府に帰城。
1616年〔75歳〕1月9日江戸へ赴き、竹千代(家光)元服の儀を行うよう命ずる。21日発病して駿府へ帰る。2月2
          日秀忠、駿府に来る。同月、公卿、諸大名、寺院等の見舞い続く。3月17日太政大臣に任ぜられる。
          4月1日本多正純、天海、崇伝らに後事を託す。17日巳の刻に死去。夜、遺命によって駿河の久能山
          へ移す。後、神号を東照大権現とする。
− 徳川四天王 −
四天王は仏法を守護する4人の神「持国天」「増長点」「広目天」「多聞天」を云うが、いずれも革製の甲冑を身に
着けた武将風の姿をしていることから、戦国時代では大将を守護する4人の武将を指して呼ぶことが多い。徳川四天
王の場合、酒井忠次・本多忠次・榊原康政・井伊直政の4人を云い、徳川草創期、軍事面で特に活躍した人物である。
 酒井忠次 さかい ただつぐ 1527〜1596年
小平次・小五郎・左衛門尉・左衛門督・従四位下
父…酒井忠善 母…某氏
妻…正室:碓井姫(吉田殿とも。松平清康の娘で松平広忠の妹) 側室:某氏
兄弟…兄:忠尚 姉:3 弟:恒城 妹:1
子供…長男:家次(二代)二男:康俊(本多忠次養子)三男:信之(小笠原信嶺養子)四男:久恒(松平親俊養子)
   五男:忠知(別家)長女:(松平伊昌の妻)次女:おとら(牧野康成の妻)養女:(山岡景佐娘・本郷頼泰の妻)
1527年 〔1歳〕三河国井田に生まれる。
1549年〔23歳〕今川氏の人質として駿府へ行く竹千代(家康)に随従したと云われるが、異説あり。
1556年〔30歳〕三河国福谷で織田氏の武将柴田勝家軍と戦い、勝家を敗走させる。忠次の初陣と云う。
1562年〔36歳〕三河国八幡・佐脇で今川勢と戦い、粉骨を尽くして軍功あり。
1563年〔37歳〕西三河の本願寺門徒(一向宗)が蜂起し、三ヶ月余、五十度余の合戦に常に先駆けして軍忠を尽くす。
1564年〔38歳〕家康軍、今川氏真の将小原鎮実が守る三河国吉田城を攻める時、先手を務める。          
          家康、吉田城を忠次に与え、東三河の旗頭として松平一族、国衆の指揮することを命じる。
          嫡男家次が生まれる。
1570年〔44歳〕嫡男家次が生まれる。
          姉川合戦に於いて、家康5千の兵を率いて信長を加戦、忠次、先手として朝倉勢を討ち破る。
1572年〔46歳〕武田信玄が遠江国を侵攻し、三方ヶ原に布陣。
          徳川軍迎撃するも敗走、家康、夜討を図るが、忠次にいさめられ中止。
1574年〔47歳〕武田勝頼軍、遠江に出張し、天竜川の川辺に布陣。川を渡るところを忠次軍、これを退却させる。
1575年〔48歳〕武田勝頼、2万の兵を率いて東三河に出張、家康5千の兵で吉田口に布陣。
          忠次、大軍にあたるべからずと家康に意見する。家康、これに従い、全軍を吉田城に入れる。
          武田勝頼、長篠城包囲軍の大半を率い、設楽ヶ原の合戦場で織田・徳川軍を対陣する。
          忠次、長篠城の地に連なる鳶ヶ巣山に在る武田方の砦を攻略することを信長に願い、諸勢と共に奪取に
          成功し、長篠城中の徳川軍と合流。これにより、武田軍は動揺し、敗走する。
1582年〔56歳〕信長、甲斐国を平定して帰陣の際、吉田城に立ち寄り、忠次に真光の太刀と金300両を与える。
          家康、忠次に信濃国を与える約束をするも、諏訪氏などが嫌うこともあって反故となる。北条氏、
          大軍を諏訪に入れ、3千余の徳川軍を追撃の時、忠次、繰引の戦術で無事に兵を新府城へ入れる。
1584年〔58歳〕小牧、長久手の戦いの時、秀吉の先手森長可が布陣する羽黒、八幡の砦を攻め、敗走させる。
          忠次軍、首300余級を得る。家康、長久手へ進発の時、忠次、石川数正と共に小牧山本陣を守る。
1586年〔60歳〕秀吉の奏請により、従四位下左衛門督に叙任。
          秀吉により、京都桜井邸と左京の料として、近江国に於いて1千石を与えられる。
1587年〔61歳〕家康、忠次邸に行き、猿楽をみる。
1588年〔62歳〕致仕し、桜井邸に住む。嫡男家次に相続。
1590年〔64歳〕徳川氏の関東入国で、家次、下総国碓井城3万石を領す。
1593年〔67歳〕五男忠知が生まれる。
1596年〔70歳〕桜井邸にて死去。京都の知恩院に葬る。
 本多忠勝 ほんだ ただかつ 1548〜1610年
鍋之助・平八郎・中務大輔・従五位下
父…本多忠高 母…植村氏義の娘(見星院)
妻…正室:於久(阿知和右衛門玄銕の娘) 側室:某氏
兄弟…妹(小野某の妻、後に中根忠実の妻)
子供…長男:忠政(二代) 二男:忠朝(別家) 長女:小松殿(真田信之の妻)次女:もり姫?(奥平家昌の妻) 
   三女(本多信之の妻)側室の娘(松下重綱の妻)側室の娘(蒲生瀬兵衛の妻)
1548年 〔1歳〕三河国蔵前に生まれる。
1560年〔13歳〕織田信長が桶狭間で今川義元を攻め、忠勝、松平元康(家康)の大高城に居る。
1561年〔14歳〕元康と信長の和睦に従い、忠勝が群衆の騒動を一言で静める。
1562年〔15歳〕元康は織田信長と同盟を結ぶため、清洲城へ赴き、忠勝も同行する。
1563年〔16歳〕元康が今川方の牛久保城を攻め、忠勝が先鋒を務める。
          三河一向一揆で、三河国欠城の忠勝は家康に味方し、酒井忠尚を撃破。          
1564年〔17歳〕今川方の吉田城を攻め、忠勝が先鋒を務める。
1566年〔19歳〕家康は、忠勝に直臣55人を配属し、騎馬侍大将になる。
1567年〔20歳〕家康が家臣の所属配置を決め、忠勝は御旗本先手侍大将になる。
1568年〔21歳〕遠江国駿河城攻めで先登して功名した。後に浜名城を降伏させ守備。
1569年〔22歳〕家康は遠江国へ侵入し、引佐郡佐久城を戸田忠次と共に攻める。
          家康は駿河城の今川氏真を攻め、忠勝が先陣を務め、奮戦する。
          武田方の山県昌景が金谷付近で家康を襲撃し、忠勝らが撃退する。
          榊原康政と共に遠江国天方城を攻略する。
1570年〔23歳〕姉川の戦いで、家康の本陣に居た忠勝が、織田勢を助け、抜群の功績。
1571年〔24歳〕遠江国懸塚港に来襲した武田水軍を大河内正綱と共に撃退する。
1572年〔25歳〕忠勝が遠江に進撃した武田信玄軍と三箇野川で戦う。
          継いで、一言坂の戦いでは、殿軍を務め、その勇戦ぶりを武田軍も認める。
          三方ヶ原の戦いで、武田方の山県昌景と忠勝が激戦を展開する。
1573年〔26歳〕家康が長篠城を攻め、忠勝が軍功をたてる。
          家康が塩沢村に本陣を移し、忠勝は浜松城の守備に廻る。
          長篠城が陥落し、忠勝は武田信綱を堀越で撃破する。
1574年〔27歳〕遠江国乾城を攻める。
1575年〔28歳〕家康と長篠の戦いに出陣し、設楽ヶ原の戦いで鉄砲隊を指揮する。
          武田方の光明城を攻め、仁王堂口から別働隊の忠勝らが攻める。
          懸河城の武田方を攻め、先鋒として遠江国小山城を忠勝が攻める。
1576年〔29歳〕忠勝が遠江国樽山城攻めで功績をたてる。
1578年〔31歳〕駿河国の持舟、馬伏塚、田中城を家康が攻め、忠勝も出陣。
1580年〔33歳〕家康が高天神城を攻め、周囲に砦を築き、忠勝が城衆と戦う。
          駿河国田中城攻めに従軍。遠江国高天神城を攻め、忠勝が先鋒を務める。
1581年〔34歳〕高天神城を攻略し、榊原康政、鳥居元忠、忠勝が激戦を展開。
1582年〔35歳〕駿河国田中城を攻め、大須賀康高、酒井忠次、榊原康政、忠勝が活躍。
          忠勝が遠江国の牧野衆を引率する。武田攻めに忠勝は遠江国小山、駿河国持舟、江尻城を攻略。
          本能寺で織田信長が討たれ、堺に居た家康は忠勝の進言で帰国する。
          甲斐国若神子で北条氏直と対陣した家康の左翼に忠勝が従う。
1584年〔37歳〕小牧、長久手の戦いで、豊臣秀吉と合戦し、忠勝は北外山砦を守備。
          忠勝は酒井忠次、石川数正に小牧山城の守備を託し、小幡城へ向う。
1585年〔38歳〕家康から酒井忠次、榊原康政と共に忠勝も知行を宛行われた。
          忠勝が今尾城の木貞利に参陣を促す。家康の軍制改革で侍大将に任命される。
1586年〔39歳〕家康と秀吉が和睦し、忠勝も京都に到り、結納の役目を務める。
1588年〔41歳〕秀吉から叙爵され、中務大輔従五位下に任官した。
          忠勝が駿河国梅島村の金堀りに定書を下した。
          家康が駿河、甲斐、信濃各国に伝馬を賦課し、忠勝が奉者を務める。
1590年〔43歳〕細川忠興らが北条氏直に岩付、鉢形、八王子、忍、津久井の各城を残して、
          忠勝らが攻略していること知らせる。忠勝らは下総、上総国の北条方の城を攻略する。
          小田原城開城にあたり、忠勝が城の受け取り役を務める。
          庁南城に居た忠勝は、高谷の延命寺に禁制を掲げた。
          上総国大多喜城10万石の城主となる。新たに大多喜城を築城する。
1600年〔53歳〕家康が会津征伐に江戸城を出陣し、忠勝も同行する。
          関ヶ原の戦いで家康と共に出陣し、毛利勢の離反を心配した家康に心配無いと進言する。
          井伊直政と共に軍監を務める。家康は大坂城に入り、忠勝らに東軍諸将の軍功を評価させた。
          家康は諸将を統括し、天下の政治を論議することを忠勝に命じた。
1601年〔54歳〕伊勢国桑名城に転封され、5万石を加増されるが辞退する。
1608年〔61歳〕筒井定次の知行没収で、伊勢国上野城の受け取り役を務める。
1610年〔63歳〕桑名城で忠勝が死去する。
 榊原康政 さかきばら やすまさ 1548〜1606年
於亀・小平太・式部大輔・従五位下
父…榊原長政 母…道家氏の娘
妻…正室:大須賀(松平)康高の娘 側室:花房氏
兄弟…兄:清政 女子:3(山内玄規某の妻)(大竹六郎左衛門某の妻)(小笠原義信の妻)
子供…長男:忠政(大須賀氏へ養子)二男:忠長(夭折)三男:康勝(二代)
   鶴姫(徳川秀忠養女・池田利隆の妻)娘(酒井忠世の妻)養女(喜連川義親の妻)
1548年 〔1歳〕三河国上野に生まれる。
1560年〔13歳〕大樹寺に於いて、家康に初めて拝謁する。
1562年〔15歳〕父長政が死去、叔父一徳斎の養子となり、家康に出仕する。
1563年〔16歳〕三河一向一揆との戦いで上野の合戦に初陣する。
          継いで、元服し、家康の諱を与えられ、康政と名乗る。
1564年〔17歳〕伊藤正照、伊奈広質、中嶋右衛門作を付属される。
          継いで、元服し、家康の諱を与えられ、康政と名乗る。
          今川方の吉田城攻めに本多忠勝、鳥居元忠と共に先陣を務める。
1566年〔19歳〕中根長重を付属される。
1568年〔21歳〕家康が岡部正綱へ送った書状に本来の取り次ぎ役であることが記される。
          遠江国堀川城攻めの先陣を務め、一番に城中へ乗り入れ城を陥れる。この時に負傷し、家康が見舞う。
1569年〔22歳〕遠江国久野城主久野宗能が今川氏真に通じた一族宗益ら誅殺に際し、家康の命によって城中へ赴き、
          これを助ける。懸河城攻めの際、懸塚港から挟撃を図った敵を、大須賀康高らと共に急攻して破った。
          遠江国天方城の天方通興を攻めて、二の丸を抜き、通興の降伏に貢献する。
1570年〔23歳〕姉川の戦いに本多広孝と共に奮戦し、先陣を切って味方を勝利に導く。自身は負傷。
1572年〔25歳〕三方ヶ原の戦いで先陣を率い、奮戦する。
1573年〔26歳〕長篠城救援の武田信綱を大須賀康高らと共に遠江国森郷で迎撃し、これを破る。
1574年〔27歳〕上杉謙信から康政宛に武田氏の背後を信長、家康で牽制することを要請した書状が出される。
          上杉謙信の家臣村上義清からも書状が出される。
          家康の遠江国犬居城攻めに従って出陣する。継いで、帰陣に際して、敵の逆襲を受け、
          大久保忠世、水野忠重と共に返し合わせて奮戦し、これを退ける。
1575年〔28歳〕長篠の戦いで諸将と共に奮戦し、大勝に貢献する。
          遠江国光明寺城攻めで、本多忠勝と共に先陣を務め、攻め落とす。
          諏訪原城攻めで先駆けを務め、戦功をあげる。継いで、小山城攻め、二俣城攻めで武功をあげる。
1578年〔31歳〕駿河国田中城攻めで戦功をあげる。
1580年〔33歳〕諸将と共に遠江国高天神城攻めに参陣する。
1581年〔34歳〕遠江国高天神城攻めの先陣を務め、これを陥れる。浜松にて長男忠政が生まれる。
1582年〔35歳〕家康の信長拝謁に供奉する。
          本能寺の変報に接し、伊賀越えにて岡崎へ帰還する家康に供奉する。家康の甲州出陣に従軍する。
          武田の遺臣野沢二右衛門宛、及び、駒井政直宛の本領安堵朱印状を奉行する。
          大須賀康高と共に豆生田を攻め、破敵する。
1583年〔36歳〕本願寺光佐から、家康への斡施を依頼する書状が出される。
1584年〔37歳〕小牧、長久手の戦いで、家康の先陣として小牧山に旗を立てる。
          小牧山の柵囲が完成し、家康が移って本陣とする。
          長久手の戦いで大須賀康高、水野忠重、本多広孝らと共に先陣を務め、井伊直政らと、池田勝入の
          軍を追い崩す。前田城、蟹江城攻めに加わり、戦功をあげる。滝川一益を伊勢へ退去させる。
          河内の保田安政からの書状が出される。家康の岡崎帰陣に小牧山の陣所守備を命じる。
1585年〔38歳〕浜松にて次男忠長が生まれる。
1586年〔39歳〕秀吉の妹旭姫の入輿に康政邸を休憩所とする。家康に供奉して上洛する。
          従五位下式部大輔に叙任される。
1589年〔42歳〕大須賀康高が死去し、康政の長男忠政が大須賀家を継承する。
1590年〔43歳〕小田原征伐で、酒匂口に伏兵を置き、敵兵の入城を阻止する。
          家康の関東入国に際し、館林10万石に封ぜられる。村上、原田、竹内、滝見らを召し抱える。
          陸奥国葛西、大崎一揆平定に参陣する。小田原の駅舎にて三男康勝が生まれる。
1591年〔44歳〕陸奥国九戸へ家康に従って出陣する。
1592年〔45歳〕家康の朝鮮出兵(文禄の役)に家康が肥前国名護屋へ赴くに際し、江戸に留まり、
          世子秀忠の補佐を命じられる。
1595年〔48歳〕関白秀次謀反の報に急いで上洛する家康の急報を受け、館林を発する。
          家康に先行して平塚に到着して滞在し、家康に先発を命ぜられる。
1599年〔52歳〕石田三成の行動の急報を受け、上洛途中、瀬田、野路、草津、赤山などで足止めされた旅人に
          入り混じって上洛し、関東兵数多上洛と見せかけ、相手を圧倒する。
1600年〔53歳〕会津の上杉景勝攻めに下向する家康に随行して大坂城を発する。
          会津攻めで、本多忠勝らと共に前軍を務める。
          秀忠が越後国蔵王城主堀親良へ一揆平定の攻を賞して書を送るに際し、副状を出し、情勢を報告する。
          出羽国檜山城主秋田実季に書状を送り、諸方の情勢を報告する。
          美濃国小原の遠藤慶隆へ家康の出動が近いことを知らせる。秀忠に従い、宇都宮を発し、信濃へ向う。
          真田昌幸の籠る上田城攻めに着手する。本多正純と共に秀忠の関ヶ原遅参を弁明する。
          同日、秀忠は家康に面会する。諸将の軍功評定を井伊直政、本多忠勝、本多正信、大久保忠隣、
          徳永寿昌らと共に命じられる。
1603年〔56歳〕征夷大将軍に任ぜられた家康の参内に供奉する。家康の上洛に供奉する。
          左京料として、近江国野洲、栗田、蒲生3郡のうち5千石を与えられる。
1604年〔57歳〕次男忠長が館林にて没する。
1605年〔58歳〕将軍職継承の為、上洛した秀忠に供奉する。康政の娘を秀忠の養女にする。
1606年〔59歳〕館林城に居て、病が悪化する。館林城にて死去する。継いで、善導寺に葬られる。
          三男康勝が跡を継ぐ。
 井伊直政 いい なおまさ 1561〜1602年
虎松・万千代・兵部少輔・侍徒・従四位下
父…井伊直親 母…奥山親朝の娘
妻…正室:松平康親の娘(東梅院) 側室:伊具氏(泰賢院)
兄弟…弟:政元
子供…長男:直勝(別家)二男:直孝(二代)長女:政子(松平忠吉の妻)次女(伊達秀宗の妻)
1561年 〔1歳〕遠江国井伊谷に生まれる。
1562年 〔2歳〕父直親戦死により、領地没収。新野親矩が直政を引き取り養育。
1564年 〔4歳〕新野親矩が引馬で戦死。浄土寺へ預け、出家させ、難を逃れる。
1568年 〔8歳〕今川氏没落の時、浄土寺僧珠源と共に三河鳳来寺へ逃れる。
          後に直政の母が浜松の松下源太郎清景に再嫁し、そこで養育される。
1575年〔15歳〕浜松城下で放鷹中の家康と御目見得し、家康に仕える。
          以後、旧姓に復し、旧領井伊谷を拝領し、万千代を称する。
1576年〔16歳〕家康、遠江国芝原で武田勝頼と対陣の時、初陣。
1581年〔21歳〕遠江国高天神城攻めの時、間諜の働きにより、水の手を切り落とす。
1582年〔22歳〕家康上洛、和泉巡覧に小姓組として従い、6月、本能寺の変の報により、長谷川秀一と計って
          伊賀、伊勢路を抜け、一揆蜂起の難を逃れる。攻により、孔雀尾羽根陣羽織を拝領。
          家康の甲信経営に際して、取次を担う。家康、甲斐若神子にて北条氏直と対陣の時、
          和議の使者を務める。この頃、家康直臣木俣守勝、西郷正友、椋原政直を与力として附属され、
          武田遺臣の一部も附属され、赤備えを命じられる。
1583年〔23歳〕松平康親の娘と婚姻。
1584年〔24歳〕長久手の戦いで先鋒を務め、池田勝入、森長一軍らを破る。
          尾張国蟹江城攻めにより、織田信雄より感状を賜る。
1585年〔25歳〕信濃丸子表、上田城へ出陣。
1586年〔26歳〕家康、秀吉との和睦の時、人質として岡崎に下る大政所を警衛する。和睦後、大政所上洛に供奉し、
          大坂に至り、秀吉に謁見。従五位下に叙位、豊臣姓を賜る。
1587年〔27歳〕侍従に任ぜられる。
1588年〔28歳〕従四位下に叙位、後陽成天皇の聚楽行幸に際し、家康と共に陪席。
1590年〔30歳〕小田原征伐に家康軍の先鋒として出陣。松平康重と共に小田原の篠曲輪を攻撃する。
          家康関東入国。直政、秀吉から箕輪移封の上意を被る。
1591年〔31歳〕陸奥国九戸攻めの時、岩手沢まで家康に供奉し、家康名代として九戸攻略に赴く。
1592年〔32歳〕朝鮮出兵に際し、肥前へ発向する家康から江戸留守居を命じられ、江戸城普請に従事する。
1593年〔33歳〕文禄の役に家臣を派遣。
1598年〔38歳〕箕輪城から高崎(和田)城へ移る。
1600年〔40歳〕徳川秀忠の上杉討伐に供奉。石田三成挙兵により、三成討伐軍の軍監として、江戸を発足。
          尾張国清洲城へ入る。関ヶ原の戦いで、松平忠吉と共に先鋒福島隊を越えて先陣を切る。
          佐和山城攻略後、近江、上野国18万石を拝領。黒田如水、毛利輝元らと調停に奔走する。
          土佐の長曽我部盛親の所領、浦戸城受け取りの為、家臣鈴木重好を派遣。
1601年〔41歳〕佐和山に就封。病療養のため、有馬へ湯治に赴く。
1602年〔42歳〕佐和山に帰り、死去。
− 徳川十六神将 −
徳川十六神将とは、家康と側近の武将達が一つの画面に描かれた「十六将図」に載る人物で、江戸幕府の創業に功績を立てた
16人を云う。「十六将図」は江戸時代初期から昭和まで幾枚と描かれ、一部人物が入れ替わって描かれているものもある。
その他に「十七将図」「二十将図」「二十八将図」がある。
 酒井忠次 さかい ただつぐ 1527〜1596年
小平次・小五郎・左衛門尉・左衛門督・従四位下・法名天誉高月縁心光求院
戦国末期から織豊期にかけて徳川家康に仕えた武将。父酒井忠善。家康の父広忠に仕え、その妹碓井姫を娶る。広忠の死後、
今川義元の人質として駿府にあった竹千代(家康)に近侍し、1560年元信(家康)が岡崎に自立後は家老となる。以後、
家康をよく補佐し、1563年三河一向一揆などに力戦、1564年家康が三河一国を統一した時、吉田城主となり、東三河
諸士の旗頭に任ぜられる。1586年従四位下左衛門督を叙任。1590年致仕して、一智と号す。葬地は京都知恩院。
 本多忠勝 ほんだ ただかつ 1548〜1610年
鍋之助・平八郎・中務大輔・従五位下
徳川氏の家臣。父は忠高。母は植村氏義の娘。1560年初陣。1566年騎馬50騎を配属、1569年には一手役の将と
なる。1572年三方ヶ原の戦い、1575年長篠の戦いにも参戦。1582年本能寺の変では、家康の伊賀越えに従った。
1588年従五位下中務大輔。1590年小田原征伐にも活躍。戦後、上総国大多喜城で10万石を与えられた。1600年
関ヶ原の戦いでは、井伊直政と共に東軍先鋒の軍監を命じられる。1601年伊勢国桑名城15万石を領するが、5万石を二
男忠朝に与えた。1610年63歳で死去。墓は桑名市の浄土寺。徳川四天王の一人とされ、戦歴は50余度と云う。
 榊原康政 さかきばら やすまさ 1548〜1606年
小平太・式部大輔・従五位下
徳川氏の家臣。長政の子。1560年以来、家康の側近にあり、1563年三河一向一揆との戦い、1564年今川氏真の将
小原鎮実の吉田城を攻めた。1570年姉川の戦い、1572年三方ヶ原の戦い、1575年長篠の戦い、1581年高天神
城攻略戦に従軍、奮戦した。1582年本能寺の変では伊賀越えに随従。1584年小牧・長久手の戦いを経て、1590年
小田原征伐では伊豆国山中を攻め、家康の関東入国に伴い、館林城10万石を与えられた。1600年関ヶ原の戦い後、吏僚
派の本多正信・正純らと対立して政治の表面から退き、1606年死去。館林の善導寺に葬られた。
 井伊直政 いい なおまさ 1561〜1602年
虎松・万千代・兵部少輔、侍従・従四位下
徳川氏の家臣。遠江国井伊谷に生まれる。母は奥山親朝の娘。1562年父直親が没すると、難を逃れるため井伊谷を離れた
。1575年家康に仕える。1581年高天神城攻めに参加し、1582年本能寺の変には家康に近侍していたため、伊賀越
えに従う。同年、甲斐侵出では、家康の使者として北条氏との交渉にあたった。これにより、武田の旧臣120名が配下に加
えられたが、甲冑は全て赤で統一されている。この年、兵部少輔を称す。1584年には井伊谷三人衆(菅谷忠久・近藤秀用
・鈴木重時)が配属になる。同年、長久手の戦いに先鋒として出陣し、池田恒興らの軍を敗った。1585年真田攻めに出兵
、1586年家康の上洛には人質の大政所を警護した。1588年従五位下・侍従となる。1590年家康の関東入国には上
野国箕輪城12万石を与えられた。1598年居城を和田へ移し、高崎城と改称する。1600年関ヶ原の戦いには本多忠勝
と共に東軍先鋒の軍監として西上、主力決戦に退却する島津勢を追撃して、島津豊久を討ち取った。また、戦後処理として、
毛利輝元との講和や山内一豊の土佐入国の援助を行っている。この功により、石田三成の旧城近江国佐和山で18万石を与え
られた。1601年従四位下。1602年関ヶ原の戦傷がもとで死去。42歳。墓所は彦根の清涼寺。
 松平康忠 まつだいら やすただ 1545〜1618年
  源七郎・甚六郎・上野介・号幻西・号元斎・法名源斎
徳川氏の家臣。政忠の長子。長沢松平と称す。1560年桶狭間の戦いで父が討死し、祖父親広の後見により家督を相続する
。1566年二連木、牛窪、八幡などの戦に従軍し、その後、酒井忠次麾下として、1570年姉川の戦い、1575年長篠
の戦いに従う。この頃、家康の長子信康について家老職を勤め、1579年信康の自害に伴い、再び、家康に仕える。158
2年伊賀越え、1584年小牧、長久手の戦いに従い、1588年致仕し、京都に住む。1618年京都で死去。嗣子康直が
早世のため、家康の第7子松千代が家督を相続する。
 大久保忠世 おおくぼ ただよ 1532〜1594年
新十郎・七郎右衛門
徳川氏の家臣。忠員の子。1546年の初陣以来、遠州進出、三方ヶ原、長篠合戦などに参加、多くの戦功を立てた。156
9年頃から一手役の将となっている。1575年には二俣城主。1590年の関東入国では、小田原城4万5千石を与えられ
た。1594年63歳で死去。小田原の大久寺に葬る。
 平岩親吉 ひらいわ ちかよし 1542〜1611年
七之助・主計頭・従五位下
徳川氏の家臣。親重の子。家康の人質時代から仕えた。1579年信康失脚の責を感じ、謹慎した。後、家康の命で出仕。家
康の関東入国後、上野国厩橋城3万3千石を受けた。関ヶ原の戦い後、甲府城6万3千石を受け、徳川義直の補佐役となる。
1607年義直の尾張国転封に従い、犬山城9万3千石となる。1611年に死去。墓所は妙源寺。
 鳥居元忠 とりい もとただ 1539〜1600年
彦右衛門
徳川氏の家臣。忠吉の三男。1551年家康に近侍。1558年寺部城攻め、1560年大高城守備、1570年姉川の戦い
、1572年三方ヶ原の戦いに従軍する。同年、父忠吉が死去。長兄忠宗が早世し、次兄翁意伯は出家していた為、家督を相
続する。1575年長篠の戦い、1580年田中城、高天神城攻め、1582年甲州征伐、1585年上田城攻めに従い、1
590年小田原征伐では岩槻城を落す。1600年の関ヶ原の戦いでは、松平家忠、松平近正、内藤家長らと共に伏見城に籠
城して討死。墓所は知恩院竜見院(長源寺)。
 鳥居直忠〔元信〕 とりい なおただ〔もとのぶ〕 実在?
 大久保忠佐 おおくぼ ただすけ 1537〜1613年
弥八郎・治右衛門・道喜
徳川氏の家臣。父は忠員。母は三条西氏。忠員に従い、多くの合戦に参加。武田氏との戦い、1584年長久手の戦いでも、
戦功を立て、1590年上総国茂原で5千石を与えられた。1600年関ヶ原の戦いでは徳川秀忠勢に従っている。1601
年駿河国沼津城2万石を領した。1613年死去。77歳。沼津の妙海寺に葬る。
 内藤正成 ないとう まさなり 1528〜1602年
甚一郎・四郎左衛門
徳川氏の家臣。甚五左衛門某の二男。伯父内藤清長の上野城に属していたが、後に家康の父松平広忠、家康に仕える。弓矢の
達人で、広忠への仕官も弓矢の名声による。1590年家康が関東入国の時、武蔵国埼玉郡に5千石を宛がわれ、1602年
病死。
 木清秀 たかぎ きよひで 1526〜1610年
善次郎・主水助・法号性順
宣光の子。幼少から織田信長の家臣水野信元に仕える。信元の死後、その遺領を与えられた佐久間信盛に属し、信盛蟄居の後
、1582年徳川家康に降る。姉川、長篠、小牧、小田原など、多くの合戦に従軍し、数々の逸話を残している。1610年
死去。85歳。
 渡辺守綱 わたなべ もりつな 1542〜1620年
半蔵・忠右衛門・法名道喜
徳川氏の家臣。高綱の子。1557年以来、家康に仕え、諸戦に加わり、軍功をあげた。中でも、1562年三河国八幡合戦
では、「槍の半蔵」と異称。1584年長久手の戦いの時、旗本足軽頭を務める。1590年家康の関東入国後は武蔵国で3
千石を領有。1592年朝鮮出兵に際し、家康に従って肥前国名護屋に出陣した。1613年から家康の九男で尾張国の義直
付となり、加増されて1万4千石。大坂の陣では義直に従って参陣する。1620年尾張国名古屋で死去。79歳。葬地は名
古屋の興善寺。
 服部正成 はっとり まさなり 1542〜1596年
半蔵・石見守
父は半三保長。保長は足利義晴の家臣、後に三河に来て松平清康、継いで広忠、家康に仕えた人で、石見守正種とも云う。先
祖は伊賀国服部郷を領する服部氏の一族。正成は家康と同年である。1557年三河国宇土城夜討の時、16歳にして伊賀の
忍び70人程を指揮して戦功を挙げた。服部一族ら伊賀ものの多くが徳川家康に召し出され、皆半蔵の指揮する隊に属した。
1572年三方ヶ原の戦いの時、伊賀もの150人を預けられた。伊賀組2百人で谷村城を守ったこともある。しかし、ゆえ
あって隊士のために討死した。その子正就は半三と云い、石見守となった人であるが、勘気をこうむり、松平隠州(定勝か)
の家に預けられた。正就の弟正重も半蔵と称し、伊豆守となる。
 米津常春 よねきづ つねはる ?〜1612年
藤蔵・法名浄心
徳川氏の家臣。勝政の長子。広忠、家康に歴任する。1549年安祥の戦いに松平清吉、伊忠、信一らと出陣。その後、15
60年の丸根城攻めには松平家広らと従軍し、1563年三河一向一揆、1564年赤坂の戦いにも従う。1612年死去。
 蜂屋貞次 はちや さだつぐ 1539〜1564年
半之丞
徳川氏の家臣。1560年今川義元の尾張進攻に際し、家康に従い、丸根城を攻めた。1563年家康の三河国吉田丞攻めに
小坂井で敵と戦う。同年、三河一向一揆では門徒方に属し、針崎の勝鬘寺に籠り、大久保忠政と戦い、更に家康と交戦して敗
れる。1564年一揆方の敗北により、忠政を頼って降り、家康の許しを得た。同年、吉田城攻めに加わり、本多忠勝と先陣
を競って鉄砲にあたり敗死。26歳。
− 上記以外で「十六将図」に描かれる武将 −
 松平家忠 まつだいら いえただ 1555〜1600年
又八郎・主殿助・法名賀屋源慶
徳川氏の家臣。伊忠(深溝松平氏)の長男。武田氏との諸合戦で攻守に軍功、牧野城などを守衛する。浜松城諸城の築城工事
に才能を発揮する。関東入国時、武蔵国忍城1万石。1600年鳥居元忠などと伏見城死守を命ぜられ戦死。46歳。「家忠
日記」を残した。
 植村家政 うえむら いえまさ 1589〜1650年
幸千代・新六郎・志摩守・出羽守・従五位下
徳川氏の家臣植村家次の子。1599年家督を継いで5百石の旗本になり、徳川秀忠の小性に任ぜられた。1608年御徒頭
に任じられ、従五位下、志摩守に叙位・任官される。1614年大坂の陣では徳川方の斥候を務め、戦後にその功績で1千石
を加増され、出羽守に遷任された。1625年徳川3代将軍家光付となり、大番頭に任ぜられ、3千5百石の加増を受ける。
1633年4千石を加増されて9千石の旗本になる。1640年1万6千石を加増されて2万5千石の大名となって諸侯に列
し、大和高取藩の初代藩主となった。1650年死去。62歳
 本多重次 ほんだ しげつぐ 1529〜1596年
八蔵・作十郎・作左衛門・高分
徳川氏の家臣。重正の子。三河平定に尽力し、1565年奉行を命ぜられた。1582年遠江国江尻、久能の城将。1586
年豊臣秀吉の母大政所の下向に際し、警備を命ぜられたが、冷遇したため、秀吉の怒りをかった。1590年関東入国には閉
居を告げられ、古井戸で3千石。1596年井野で死去。68歳。墓は青柳村の本願寺。
 夏目吉信 なつめ よしのぶ ?〜1572年
次郎左衛門・法名行誉
徳川氏の家臣。吉久の長子。1561年長沢城攻め、1562年板倉重定攻めに従軍する。1563年の三河一向一揆では、
大津半右衛門、乙部八兵衛、久留正勝らと門徒方として野場城に籠り、松平伊忠に攻められ落城。後に許されて、同年、三河
、遠江両国の郡代となる。1572年三方ヶ原の戦いでは、浜松城を守るが、家康救援のために出兵して討死する。
 大須賀康高 おおすか やすたか 1528〜1589年
五郎左衛門尉
徳川氏の家臣。1573年武田方の遠江国高天神城の押さえとして、遠江国馬伏塚を守備。1582年遠江国横須賀城主とな
り、武田勢と戦った。1584年長久手の戦いの先鋒として、三好秀次を追い詰めるが、堀秀政の反撃に敗れた。1585年
信濃国上田城の真田氏を攻めた。この時、味方の苦戦を聞いて井伊直政と救援に赴いた。1589年死去。
 石川数正 いしかわ かずまさ ?〜1592年
与七郎・康正・吉輝・伯耆守・出雲守・箇三寺
徳川氏の家臣。康正の子。1549年岡崎から駿府今川氏のもとに人質として送られた竹千代(徳川家康)に随行した。15
60年桶狭間の戦いに従軍。松平氏と織田氏の連盟斡施に努め、1562年の清洲会盟を成功させた。その後、西三河の旗頭
として、酒井忠政と並び、家康の老臣として活躍した。1582年本能寺の変の時、家康の伊賀越えに従い、1584年小牧
、長久手の戦いに従軍した。戦後、家康の使節として上京し、豊臣秀吉に会見した。1585年、突然、岡崎から脱走し、秀
吉のもとへ赴いた。数正が秀吉に通じたという噂が広まり、家康のもとに留まることが出来なかったと云われ、この噂は秀吉
自身が流したと云われている。1586年和泉国14万石を与えられたといい、九州征伐、小田原征伐に従軍の後、1590
年信濃国松本城主8万石を与えられた。1592年朝鮮出兵に際して、肥前国名護屋に出陣したが、同年、没した。
 石川家成 いしかわ いえなり 1535〜1609年
日向守
徳川氏の家臣。清兼の子。1564年三河一向一揆の平定に功があった。1569年今川氏真が没落して後、遠江国掛川城の
守将となる。1570年織田信長が近江国坂本で浅井、朝倉連合軍と対峙した時、信長応援の徳川軍に加わった。1590年
関東入国の際、伊豆国梅縄5千石を給される。1609年死去。
 松平信一 まつだいら のぶかず 1539〜1624年
勘四郎・弁誉道雄専求・伊豆守・従四位下
徳川氏の家臣。利長(藤井松平氏)の長男。家康の初陣以来、諸合戦に活躍。1568年織田信長の近江国箕作城攻めを支援
した徳川軍の主将として先登し、これを攻略。関東入国時、下総国相馬郡布川で5千石。1601年常陸国土浦城3万5千石
。1624年丹波国篠山で死去。86歳。高野山浄真寺に葬る。
 松平康親 まつだいら やすちか 1521〜1583年
周防守
徳川氏の家臣。1575年家康が武田方の遠江国諏訪原城を攻略すると、その守護を命ぜられた。1581年遠江に7百貫文
の地を加増され、都合4千7百貫文の知行を宛がわれた。1582年武田氏滅亡後、家康の四男松平忠吉が沼津城に入ると、
その後見役となり、、しばしば韮山城北条氏規と戦った。
 本多康孝 ほんだ やすたか 実在せず
 本多忠次 ほんだ ただつぐ 1549〜1613年
彦八郎・隼人佐・縫殿助・法名岌信松見
徳川氏の家臣。忠俊の子。兄光忠が病気の為、父の跡を継ぎ、家康に仕える。1564年吉田城攻めの先鋒となり、三河国宝
飯、渥美両郡内で5千貫を領した。また、姉川、長篠の戦いや高天神城攻めでも戦功があった。1589年に隠居し、酒井忠
次の二男康俊に家督を譲った。1613年三河国西尾で死去。66歳。
 鳥居忠広 とりい ただひろ ?〜1572年
四郎左衛門・法名宗艦
徳川氏の家臣。忠吉の四男。兄忠元と共に家康に従い、軍監を務める。1570年姉川の戦いで家康方の先鋒として従軍する
。1572年三方ヶ原の戦いの際、武田軍多勢により、休戦することを家康に告げたが、認められず出陣する。家康は大敗し
、忠広は殿軍を務め、新井本坂に於いて武田方の土屋直村を破ったが、敵兵のため討死。墓所は法藏寺。
 藤堂高虎 とうどう たかとら 1556〜1630年
与吉・与右衛門・佐渡守・和泉守・従四位下・侍従・右少将
近江国犬上郡藤堂村の土豪出身の大名。伊賀、伊勢津藩祖。父源助虎高。浅井氏に仕え、15歳で姉川の戦いで功を挙げたが
、近江を去って18歳で織田信澄に仕えた。後に羽柴秀長に仕え、軍功により、3千石を領す。1583年賤ヶ岳の戦いに功
があって2千石を加増され、後に豊臣秀吉から5千石を加増された。1587年島津討伐の軍功によって1万石を加増される
。この頃、秀吉の推挙によって従五位下、佐渡守に叙任した。秀長没後、その嗣秀俊に仕え、1592年朝鮮出兵では、秀俊
に代わり、渡海し、軍功を挙げたが、1596年秀俊の死に遭い、高野山で剃髪した。しかし、秀吉に召し出され、5万石を
加増されて伊予国板島(宇和島)城主7万石を領知。1597年再度、朝鮮に出動した。唐島で敵船を捕獲、南原城を抜き、
水原で敢闘し、負傷した。帰国後、伊予国内で1万石を加増され、8万石を領した。1600年頃から徳川家康と通じ、上杉
征伐、岐阜城攻略に加わり、関ヶ原の戦いでも東軍に属した。戦後、伊予国を賜り、20万石を領し、今治城主となる。16
08年所領伊賀一国、伊勢国八郡に移り、津城に住んで22万9百石を領知。1615年大坂の陣では家康の先鋒となり、長
宗我部盛親らと戦う。同年、従四位下に昇叙。1630年死去。75歳。江戸東叡山の寒松院に葬る。
− 上記以外で「二十将図」に描かれる武将 −
 板倉勝重 いたくら かつしげ 1545〜1624年
甚平・四郎右衛門・伊賀守・法名香誉宗哲・従四位下・侍従
徳川氏の家臣。好重の二男。幼児に出家して玉庵和尚の弟子になり、三河国永安寺に住む。父好重、弟定重が相次いで討死し
、兄忠重は松平好景の家臣になっていた為、1581年家康の命により、還俗じて遺領を相続した。1586年家康が駿府に
移ると、その町奉行、1590年家康関東入国に際して、関東代官・小田原地奉行を兼任した。1601年京都町奉行を経て
京都所司代となり、朝廷・公家・西国諸大名の監視、及び、支配強化に努めた。1624年京都堀川で死去。墓所は長円寺。
 戸田忠次 とだ ただつぐ 1531〜1597年
三郎右衛門尉
徳川氏の家臣。三河国田原城主。一旦は家康に背き浪人、その後復帰し、1590年家康の関東入国の時、伊豆国下田5千石
を与えられた。1597年没す。
 水野忠重 みずの ただしげ 1541〜1600年
忠勝・藤十郎・惣兵衛・和泉守・従五位下
三河国刈谷城主。下野守忠政の九男、水野信元の異母弟。兄信元に従って織田信長に仕え、1561年から徳川家康の臣とな
る。その後、家康のもとで諸戦に参加。1580年信長から兄信元の旧領刈谷城を賦与。1584年小牧・長久手合戦後、徳
川氏のもとを去り、一時、豊臣秀吉に属して武者奉行に任ぜられる。1590年小田原征伐の後、伊勢国神戸4万石。159
2年朝鮮出兵に際して肥前国名護屋に駐留、守護にあたる。1596年旧領刈谷城に復帰。秀吉没後は家康に従い、1600
年関ヶ原合戦前に石田三成の与党加々野江重政に刺殺された。60歳
 安藤直次 あんどう なおつぐ 1555〜1635年
千福丸・彦四郎・彦兵衛・帯刀・従五位下
江戸時代前期の幕臣。安藤杢助基能の長男。重信の兄。幼少から徳川家康に近侍し、1570年姉川の戦い、1575年長篠
の戦い、1584年長久手の戦いに従軍。1603年家康の将軍宣下に供奉、のち家康の側近として本多正純らと共に幕政に
参画した。1610年家康の十男頼宣の傳役となり、大坂の陣には頼宣に従って出陣。1617年遠江国掛川城1万石を領し
、1619年頼宣が紀伊へ移ると、紀伊国田辺に封ぜられ、与力、同心の給地とも3万8千8百石余りを支配した。1635
年死去。墓所は三河国妙源寺。
 渥美勝吉 あつみ かつよし 1557〜1616年
 本多俊正 ほんだ としまさ
 酒井重忠 さかい しげただ 1549〜1615年
与四郎・河内守・従五位下・法名源英傑叟竜海院
織豊期に徳川家康に仕えた武将。江戸期には譜代大名。父は酒井氏。雅楽頭系嫡流6代正親。幼児から徳川家康に仕え、15
86年父の遺領を継ぎ、西尾城主。1590年家康の関東入国の時、武蔵国川越城主となり、1万石余を領す。1601年上
野国前橋城主に転じ、3万3千余を領す。葬地は前橋竜海院。
 松平定勝 まつだいら さだかつ 1560〜1624年
長福・三郎四郎・隠岐守・従四位下・左少将・法名雲巌円徹
徳川氏の家臣。久松俊勝の四男。家康の異父弟(母は於大の方・伝通院)で松平の称号を与えられる。1584年尾張国蟹江
城攻めに先登。同年、豊臣秀吉の養子になるところ、伝通院の強い反対で実現しなかった。1590年関東入国時、下総国香
取郡小南で3千石。1607年伏見城の城代で5万石。1617年伊勢国桑名城11万石。1624年死去。65歳。同地の
宗源院に葬る。
− 徳川二十八神将 −
武田信玄の武田二十四将に対抗して作られ、徳川家康の功臣として日光東照宮に配祀された28人を云う。
 松平康忠 まつだいら やすただ 1545〜1618年
  源七郎・甚六郎・上野介・号幻西・号元斎・法名源斎
徳川氏の家臣。政忠の長子。長沢松平と称す。1560年桶狭間の戦いで父が討死し、祖父親広の後見により家督を相続する
。1566年二連木、牛窪、八幡などの戦に従軍し、その後、酒井忠次麾下として、1570年姉川の戦い、1575年長篠
の戦いに従う。この頃、家康の長子信康について家老職を勤め、1579年信康の自害に伴い、再び、家康に仕える。158
2年伊賀越え、1584年小牧、長久手の戦いに従い、1588年致仕し、京都に住む。1618年京都で死去。嗣子康直が
早世のため、家康の第7子松千代が家督を相続する。
 酒井忠次 さかい ただつぐ 1527〜1596年
小平次・小五郎・左衛門尉・左衛門督・従四位下・法名天誉高月縁心光求院
戦国末期から織豊期にかけて徳川家康に仕えた武将。父酒井忠善。家康の父広忠に仕え、その妹碓井姫を娶る。広忠の死後、
今川義元の人質として駿府にあった竹千代(家康)に近侍し、1560年元信(家康)が岡崎に自立後は家老となる。以後、
家康をよく補佐し、1563年三河一向一揆などに力戦、1564年家康が三河一国を統一した時、吉田城主となり、東三河
諸士の旗頭に任ぜられる。1586年従四位下左衛門督を叙任。1590年致仕して、一智と号す。葬地は京都知恩院。
 井伊直政 いい なおまさ 1561〜1602年
虎松・万千代・兵部少輔、侍従・従四位下
徳川氏の家臣。遠江国井伊谷に生まれる。母は奥山親朝の娘。1562年父直親が没すると、難を逃れるため井伊谷を離れた
。1575年家康に仕える。1581年高天神城攻めに参加し、1582年本能寺の変には家康に近侍していたため、伊賀越
えに従う。同年、甲斐侵出では、家康の使者として北条氏との交渉にあたった。これにより、武田の旧臣120名が配下に加
えられたが、甲冑は全て赤で統一されている。この年、兵部少輔を称す。1584年には井伊谷三人衆(菅谷忠久・近藤秀用
・鈴木重時)が配属になる。同年、長久手の戦いに先鋒として出陣し、池田恒興らの軍を敗った。1585年真田攻めに出兵
、1586年家康の上洛には人質の大政所を警護した。1588年従五位下・侍従となる。1590年家康の関東入国には上
野国箕輪城12万石を与えられた。1598年居城を和田へ移し、高崎城と改称する。1600年関ヶ原の戦いには本多忠勝
と共に東軍先鋒の軍監として西上、主力決戦に退却する島津勢を追撃して、島津豊久を討ち取った。また、戦後処理として、
毛利輝元との講和や山内一豊の土佐入国の援助を行っている。この功により、石田三成の旧城近江国佐和山で18万石を与え
られた。1601年従四位下。1602年関ヶ原の戦傷がもとで死去。42歳。墓所は彦根の清涼寺。
 榊原康政 さかきばら やすまさ 1548〜1606年
小平太・式部大輔・従五位下
徳川氏の家臣。長政の子。1600年以来、家康の側近にあり、1563年三河一向一揆との戦い、1564年今川氏真の将
小原鎮実の吉田城を攻めた。1570年姉川の戦い、1572年三方ヶ原の戦い、1575年長篠の戦い、1581年高天神
城攻略戦に従軍、奮戦した。1582年本能寺の変では伊賀越えに随従。1584年小牧・長久手の戦いを経て、1590年
小田原征伐では伊豆国山中を攻め、家康の関東入国に伴い、館林城10万石を与えられた。1600年関ヶ原の戦い後、吏僚
派の本多正信・正純らと対立して政治の表面から退き、1606年死去。館林の善導寺に葬られた。
 大須賀康高 おおすか やすたか 1528〜1589年
五郎左衛門尉
徳川氏の家臣。1573年武田方の遠江国高天神城の押さえとして、遠江国馬伏塚を守備。1582年遠江国横須賀城主とな
り、武田勢と戦った。1584年長久手の戦いの先鋒として、三好秀次を追い詰めるが、堀秀政の反撃に敗れた。1585年
信濃国上田城の真田氏を攻めた。この時、味方の苦戦を聞いて井伊直政と救援に赴いた。1589年死去。
 大久保忠教 おおくぼ ただたか 1560〜1639年
忠雄・平助・彦左衛門
徳川氏の家臣。忠員の八男。1576年以来、兄忠世に従って多くの合戦に参加。1590年に甥忠隣の所領から2千石を領
す。1614年忠隣の失脚により、駿府へ召され1千石、槍奉行となる。1625年旗奉行、1633年1千石を加増。16
39年、80歳で死去。墓は三河国岡崎の長福寺。「三河物語」の著作者。
 伊奈〔本多〕忠俊 いな〔ほんだ〕 ただとし
 内藤家長 ないとう いえなが 1546〜1600年
金一郎・弥次右衛門
三河松平氏徳川家譜氏の家臣。清長の嫡男。母は松平弥右衛門の娘。御先手に属し、1563年三河一向一揆の鎮圧に活躍し
て以来、数々の戦功を立てる。1590年家康の関東入国の時、上総国佐貫城2万石を領す。1600年関ヶ原の戦いの前、
伏見城を守衛し、同城下で戦死した。墓所は近江国大津の大練寺。
 伊奈忠政 いな ただまさ 1585〜1618年
筑後守
関東郡代伊奈忠次の嫡男。1590年家康の関東入国の時、武蔵国小室1万3千石を与えられる。父忠次と共に検地や新田開
発、河川改修に携わり、1610年忠次没後、遺領を相続して関東郡代職を継いだ。1614年大坂冬の陣では、外堀を埋め
る普請奉行を務め、長柄川を堰き止める作業などに才を発揮、夏の陣では首級実に三十を挙げるなど活躍した。1618年死
去。34歳。
 大久保忠世 おおくぼ ただよ 1532〜1594年
新十郎・七郎右衛門
徳川氏の家臣。忠員の子。1546年の初陣以来、遠州進出、三方ヶ原、長篠合戦などに参加、多くの戦功を立てた。156
9年頃から一手役の将となっている。1575年には二俣城主。1590年の関東入国では、小田原城4万5千石を与えられ
た。1594年63歳で死去。小田原の大久寺に葬る。
 内藤信成 ないとう のぶなり 1546〜1612年
徳川氏の家臣。嶋田景信の二男、内藤清長の養子。母は清長の姉。1560年尾張国丸根城を攻略、三河国挙母城攻略で戦功
をあげ、1563年三河一向一揆では家康方に応じる。1572年三方ヶ原の戦いで殿軍を勤め、1575年長篠の戦いで御
先手の侍大将として活躍する。1589年甲斐国常光寺城主。1590年家康の関東入国の時、伊豆国韮山城主。1601年
4万石で駿河国府中城主となり、1606年近江国長浜城主となり、4万石を領す。1612年死去。
 酒井正親 さかい まさちか 1521〜1576年
政家・与四郎・雅楽頭
戦国期に松平宗家に仕えた武将。父は酒井雅楽頭系6代目清秀。幼児から家康の祖父清秀、継いで広忠、家康3代に仕え、特
に広忠、家康の家老となる。1561年牧野貞成の守る西尾城を攻め落とし、その城主となる。これが、松平宗家譜代が城主
となった初めと云う。葬地は岡崎の是字寺。
 大久保忠佐 おおくぼ ただすけ 1537〜1613年
弥八郎・治右衛門・道喜
徳川氏の家臣。父は忠員。母は三条西氏。忠員に従い、多くの合戦に参加。武田氏との戦い、1584年長久手の戦いでも、
戦功を立て、1590年上総国茂原で5千石を与えられた。1600年関ヶ原の戦いでは徳川秀忠勢に従っている。1601
年駿河国沼津城2万石を領した。1613年死去。77歳。沼津の妙海寺に葬る。
 米津常春 よねきづ つねはる ?〜1612年
藤蔵・法名浄心
徳川氏の家臣。勝政の長子。広忠、家康に歴任する。1549年安祥の戦いに松平清吉、伊忠、信一らと出陣。その後、15
60年の丸根城攻めには松平家広らと従軍し、1563年三河一向一揆、1564年赤坂の戦いにも従う。1612年死去。
 平岩親吉 ひらいわ ちかよし 1542〜1611年
七之助・主計頭・従五位下
徳川氏の家臣。親重の子。家康の人質時代から仕えた。1579年信康失脚の責を感じ、謹慎した。後、家康の命で出仕。家
康の関東入国後、上野国厩橋城3万3千石を受けた。関ヶ原の戦い後、甲府城6万3千石を受け、徳川義直の補佐役となる。
1607年義直の尾張国転封に従い、犬山城9万3千石となる。1611年に死去。墓所は妙源寺。
 奥平信昌 おくだいら のぶまさ 1555〜1615年
定昌・九八郎・美作守・従五位下
徳川氏の家臣。貞能の長子。母は牧野成種の娘。1570年姉川の戦いに父と共に出陣。一時、武田氏に仕えるが、1573
年本多広孝を仲介として、再び出仕。1575年長篠の戦いでは長篠城将として援兵松平伊昌と共に籠城、固守し、織田・家
康軍大勝の勝因をなす。1576年新城城へ移り、家康の娘亀姫を室とする。1580年遠江国高天神城攻めにあたり横須賀
城を守り、1582年甲州征伐、1584年小牧・長久手の戦い、1590年小田原征伐に従軍し、1600年関ヶ原の戦い
に出陣後、京都所司代に就任。1601年まで京都の制法を司り、その間、西軍の敗将安国寺恵瓊を捕らえる。1601年
上野国宮崎3万石から美濃国加納10万石に転じ、1615年同地で死去。墓所は同地の増瑞寺(盛徳寺)。
 本多忠勝 ほんだ ただかつ 1548〜1610年
鍋之助・平八郎・中務大輔・従五位下
徳川氏の家臣。父は忠高。母は植村氏義の娘。1560年初陣。1566年騎馬50騎を配属、1569年には一手役の将と
なる。1572年三方ヶ原の戦い、1575年長篠の戦いにも参戦。1582年本能寺の変では、家康の伊賀越えに従った。
1588年従五位下中務大輔。1590年小田原征伐にも活躍。戦後、上総国大多喜城で10万石を与えられた。1600年
関ヶ原の戦いでは、井伊直政と共に東軍先鋒の軍監を命じられる。1601年伊勢国桑名城15万石を領するが、5万石を二
男忠朝に与えた。1610年63歳で死去。墓は桑名市の浄土寺。徳川四天王の一人とされ、戦歴は50余度と云う。
 鳥居元忠 とりい もとただ 1539〜1600年
彦右衛門
徳川氏の家臣。忠吉の三男。1551年家康に近侍。1558年寺部城攻め、1560年大高城守備、1570年姉川の戦い
、1572年三方ヶ原の戦いに従軍する。同年、父忠吉が死去。長兄忠宗が早世し、次兄翁意伯は出家していた為、家督を相
続する。1575年長篠の戦い、1580年田中城、高天神城攻め、1582年甲州征伐、1585年上田城攻めに従い、1
590年小田原征伐では岩槻城を落す。1600年の関ヶ原の戦いでは、松平家忠、松平近正、内藤家長らと共に伏見城に籠
城して討死。墓所は知恩院竜見院(長源寺)。
 菅沼定盈 すがぬま さだみつ 1543〜1604年
竹千代・新八郎・織部正・従五位下
徳川氏の家臣。定村の長子。当初、今川に属すが、1561年家康に属し、富永郷など20ヶ所の本領を安堵される。この為
、同年、氏真により野田城を失うが、1562年復す。1568年からの遠江侵攻に従軍、井伊谷城・刑部城・浜松城等を落
とし、川合・高部郷と1千5百貫文の地を宛がわれる。1571年一族以下の多くが武田方となるが、終始、徳川方として行
動し、1573年信玄に野田城を攻められ落城。武田方に捕らえられるが、奥平貞勝ら山家三方衆の人質と交換で釈放される
。1575年長篠の戦い、1582年甲州討伐、1584年小牧・長久手の戦い、1590年小田原征伐に従軍し、1600
年関ヶ原の戦いには江戸城留守居番を勤める。1604年封地の伊勢国長島で死去。墓所は幸春院(宗堅寺)。
 渡辺守綱 わたなべ もりつな 1542〜1620年
半蔵・忠右衛門・法名道喜
徳川氏の家臣。高綱の子。1557年以来、家康に仕え、諸戦に加わり軍功をあげた。中でも1562年三河国八幡の戦いで
は「槍の半蔵」と異称。1584年長久手の戦いの時、旗本足軽頭を勤める。1590年家康の関東入国では、武蔵国で3千
石を領有。また、1592年朝鮮出兵に際して家康に従い、肥前国名護屋に出陣した。1613年から家康の九男義直付とな
り、加増されて1万4千石。1614〜1615年大坂の陣には義直に従って参戦する。1620年尾張国名古屋で死去。7
9歳。葬地は同地興善寺。
 岡部長盛 おかべ ながもり 1568〜1632年
半弥・弥次郎・内膳正・従五位下・法名全室久要雄心院
徳川氏の家臣。正綱の子。1584年長久手の戦いなどに戦功をあげ、1590年家康の関東入国の時、上総・下総で1万2
千石を与えられた。1609年丹波国亀山城主2万石を領し、1621年福知山城主に転じ、5万石を領した。更に1624
年には大垣城主となり、1632年同地で死去。65歳。墓所は美濃国瑞厳寺。
 木清秀 たかぎ きよひで 1526〜1610年
善次郎・主水助・法号性順
宣光の子。幼少から織田信長の家臣水野信元に仕える。信元の死後、その遺領を与えられた佐久間信盛に属し、信盛蟄居の後
、1582年徳川家康に降る。姉川、長篠、小牧、小田原など、多くの合戦に従軍し、数々の逸話を残している。1610年
死去。85歳。
 蜂屋貞次 はちや さだつぐ 1539〜1564年
半之丞
徳川氏の家臣。1560年今川義元の尾張進攻に際し、家康に従い、丸根城を攻めた。1563年家康の三河国吉田丞攻めに
小坂井で敵と戦う。同年、三河一向一揆では門徒方に属し、針崎の勝鬘寺に籠り、大久保忠政と戦い、更に家康と交戦して敗
れる。1564年一揆方の敗北により、忠政を頼って降り、家康の許しを得た。同年、吉田城攻めに加わり、本多忠勝と先陣
を競って鉄砲にあたり敗死。26歳。
 服部正成 はっとり まさなり 1542〜1596年
半蔵・石見守
父は半三保長。保長は足利義晴の家臣、後に三河に来て松平清康、継いで広忠、家康に仕えた人で、石見守正種とも云う。先
祖は伊賀国服部郷を領する服部氏の一族。正成は家康と同年である。1557年三河国宇土城夜討の時、16歳にして伊賀の
忍び70人程を指揮して戦功を挙げた。服部一族ら伊賀ものの多くが徳川家康に召し出され、皆半蔵の指揮する隊に属した。
1572年三方ヶ原の戦いの時、伊賀もの150人を預けられた。伊賀組2百人で谷村城を守ったこともある。しかし、ゆえ
あって隊士のために討死した。その子正就は半三と云い、石見守となった人であるが、勘気をこうむり、松平隠州(定勝か)
の家に預けられた。正就の弟正重も半蔵と称し、伊豆守となる。
 安藤直次 あんどう なおつぐ 1555〜1635年
千福丸・彦四郎・彦兵衛・帯刀・従五位下
江戸時代前期の幕臣。安藤杢助基能の長男。重信の兄。幼少から徳川家康に近侍し、1570年姉川の戦い、1575年長篠
の戦い、1584年長久手の戦いに従軍。1603年家康の将軍宣下に供奉、のち家康の側近として本多正純らと共に幕政に
参画した。1610年家康の十男頼宣の傳役となり、大坂の陣には頼宣に従って出陣。1617年遠江国掛川城1万石を領し
、1619年頼宣が紀伊へ移ると、紀伊国田辺に封ぜられ、与力、同心の給地とも3万8千8百石余りを支配した。1635
年死去。墓所は三河国妙源寺。
 本多康高 ほんだ やすたか
 松平伊忠 まつだいら これただ ?〜1575年
又八郎・源了・主殿助
徳川氏の家臣。好景(深溝松平氏)の長男。1562年家康から本領を安堵される。1563年武田氏の侵攻に備えて三河国
長沢城を守り、三河一向一揆では、一揆方の勇将を補縛する。1572年三方ヶ原の戦いなど諸合戦で軍功。1575年長篠
の戦いで鳶ヶ巣山攻めで戦死。39歳。
 水野勝成 みずの かつなり 1541〜1651年
国松・藤十郎・日向守・従五位下
刈谷城主。忠重の子。家康の従兄弟にあたる。1575年遠江国高天神城攻撃より、諸戦に参陣。後、父忠重との不和から、
徳川氏を離れ、1585年から豊臣秀吉・佐々成政・小西行長らに歴任、また、備中の三村家親に寄寓する。1600年忠重
の死去により、家康に召還されて帰参、父の遺領を継ぎ、三河国刈谷城を領す。1615年大坂夏の陣の後、大和国郡山6万
石を経て、1620年備前国福山10万石となる。1637年島原の乱制圧軍として出陣。1639年致仕し、1651年福
山で死去。葬地は同地賢忠寺。
− 三河三奉行 −
徳川家康の三河時代に奉行として活躍した戦国武将。岡崎三奉行とも呼ばれる。
 高力清長 こうりき きよなが 1530〜1608年
新三・与左衛門・従五位下・河内守
徳川氏の家臣。安長の長子。三河に生まれ、1552年から家康に仕える。三河一向一揆の時、土呂義宗寺の仏像・経典を戦
禍から守ったことから、「仏高力」と云われた。1564年三河岡崎の三奉行の一人となり、後、浜松の奉行となる。158
0年遠江国馬伏塚城主、1582年駿河国田中城へ移った。1584年小牧・長久手の戦いの和議の使者として、京へ派遣さ
れた。1586年以降、秀吉の信頼が厚く、豊臣姓を受けて、従五位下河内守に叙任、1588年には聚楽第造営奉行を勤め
た。1590年家康の関東入国の際、武蔵国岩槻城2万石を領し、城辺浦和郷1万石の管理を命ぜられた。1592年朝鮮出
兵に際して、軍船建造を担当。没年については1600年、1604年、1608年の3説がある。墓所は岩槻の浄安寺。
 本多重次 ほんだ しげつぐ 1529〜1596年
八蔵・作十郎・作左衛門・高分
徳川氏の家臣。重正の子。三河平定に尽力し、1565年奉行を命ぜられた。1582年遠江国江尻、久能の城将。1586
年豊臣秀吉の母大政所の下向に際し、警備を命ぜられたが、冷遇したため、秀吉の怒りをかった。1590年関東入国には閉
居を告げられ、古井戸で3千石。1596年井野で死去。68歳。墓は青柳村の本願寺。
 天野康景 あまの やすかげ 1537〜1613年
又五郎・三郎兵衛・景能
江戸時代前期の譜代大名。景勝の子。11歳の時、家康の小姓となって尾張・駿河に従った。1563年三河一向一揆に功が
あり、高力清長・本多重次と共に岡崎三奉行に任命された。1586年近江国甲賀の士を付属され、2千2百貫文の地を宛が
われた。1590年家康の関東入国の時、下総国香取郡大須賀のうち3千石を与えられ、江戸奉行に任命された。1601年
譜代大名となり、駿河国興国寺で1万石を与えられ、1607年家臣が天領の農民を殺害した為、改易となった。1613年
死去。77歳。