常陸 土浦城
Tsuchiura castle
土浦城跡【茨城県土浦市中央1丁目13他】
土浦市立博物館【茨城県土浦市中央1丁目15-18】
土浦小学校【茨城県土浦市大手町13-32】
鈴文本社【茨城県土浦市中央1丁目12-16】
【立地】平城
【別称】亀城
【県指定史跡】
【歴史】平安時代(794~1185年)、平将門が築いたという伝説もあるが、永享年間
(1429~1441年)、若泉三郎が築城、1459~1462年桜川の流路変更工事を
行ったと云われる。1516年土浦城主若泉五郎左衛門が小田方の武将菅谷勝貞に落とされ
、信太範貞→菅谷勝貞の居城となる。勝貞は小田家14代政治-15代氏治の腹心として活
躍、その子政貞-範貞も小田氏の勢力が衰退する中、上杉・佐竹氏らとよく戦った。小田氏
治は居城であった小田城が落ちると土浦城へ入り、度々小田城奪回を試みるが、1570年
以降、佐竹軍の攻撃を直接受けるようになり、1583年氏治は佐竹氏の軍門に降った。1
590年「小田原征伐」の際、小田氏治は北条と結んでいた為、徳川家康・佐竹氏の攻撃を
受けて落城、小田氏は滅亡した。菅谷範貞は真壁郡高津村へ蟄居〔家康に小田氏への忠義を
認められ、1603年筑波郡手子生5000石を拝領、京都五条御番などを勤めた〕。土浦
は家康の次男秀康を結城城主結城晴朝の養子とし、支配下に置いた。1600年「関ヶ原の
戦い」の後、結城秀康は越前国北ノ庄へ移封、1601年下総国布川5000石の藤井松平
信一が3万5000石で入り、土浦藩を立藩した。1603年養子の信吉が4万石を継ぎ、
水戸街道を城下に通し、城下町の区画割を行った。1617年1万石の加増を受けて上野国
高崎へ移った。1618年上野国白井から西尾忠永が2万石で入封、1649年その子忠昭
は2万5000石で駿河国田中へ移り、下野国鹿沼3万石から移った朽木稙網は、1657
年大手門を太鼓櫓門に改築した。1660年稙昌が家督を相続した際、弟則綱に3000石
を分与、2万7000石で遺領を継いだが、1669年丹波国福知山3万2000石へ転封
となった。朽木氏の後、老中土屋数直が4万5000石で入封、1679年その子政直が相
続したが、1681年駿河国田中藩酒井忠能が不行状を理由に領地没収された時、政直が城
の受け取りを命ぜられ、任務終了後、そのまま田中に封ぜられた。大河内松平信綱の五男信
興が2万2000石で入封。1687年大坂城代に就任し、摂津・河内・下野国内で1万石
の加増を受けて土浦を後にした。松平信興の後、土屋政直が6万5000石で復帰、綱吉-
家宣-家継-吉宗と4代の将軍に老中として仕え、その功績で9万5000石を得た。醤油
の醸造を奨励し、大国屋は亀甲印の商標を得て、江戸城御用達となった。1719年襲封し
た陳直〔奏者番〕は土浦城・城下町・交通路を整え、霞ヶ浦の水路交通も盛んになり、城下
町は繁栄した。その後、1734年篤直〔寺社奉行〕-1776年寿直-1777年泰直〔
奏者番〕-1790年英直〔奏者番〕-1803年寛直-1811年彦直〔水戸徳川治保の
三男〕-1838年寅直〔奏者番・寺社奉行加役・大坂城代〕を経て、1868年拳直〔水
戸徳川斉昭らの十七男〕が継ぎ、1869年版籍奉還により知藩事となり、1871年廃藩
となる。1935年亀城公園として整備され、1952年櫓門とともに県指定史跡となる。
1991年西櫓、1998年東櫓が復元された。2011年東日本大震災で建物が破損し、
2012年櫓門、西櫓、東櫓、塀の修復が完了した。2017年続日本100名城に選定さ
れ、他に堀、土塁が残る。
【所感】街中の城跡は、主要エリアだけ残して公園になるケースがよくありますが、土浦城
跡も例に漏れず本丸と二の丸の一部を残し、三の丸以下は消失して市街地となっています。
本丸は太鼓櫓門、西櫓、東櫓、霞門、塀、土塁、水堀など充実した内容になっており、二の
丸は南側に土塁、水堀、少し離れた場所に大手門跡(土浦小学校南)、搦手門跡(鈴文本社
前)の石碑を設けて、城の存在が感じられるようになっています。車は土浦市立博物館の無
料駐車場が利用出来ます。
現存 太鼓櫓門【県指定史跡】
太鼓櫓門の礎石・土浦市立博物館
本丸北側の水堀
二重二階 復元 西櫓
復元 東櫓
東櫓1階
東櫓2階
土塁上の東櫓と土塀
本丸
本丸東側の土塁
霞門〔本丸裏門〕・市指定文化財
二の丸門の場所に移築された「土浦旧前川口門」・市指定文化財
二の丸西側の水堀
大手門跡
搦手門跡