豊後 角牟礼城
Tsunomure castle

角牟礼城跡【大分県玖珠郡玖珠町太田・森】
 クス精密【大分県玖珠郡玖珠町太田255-2】

【立地】山城
【別称】角埋城・津野牟礼城

【国指定史跡】角牟礼城跡

【歴史】角埋山〔標高576m・比高240m〕に築かれた山城である。久寿年間(115
4~1156年)源為朝が築いたという伝説があるが、弘安年間(1278~1288年)
以降、森氏の居城となる。森氏は飯野元政が大友親秀より森ノ庄を賜り、森氏を称して代々
大友氏に属した。下って、1586年豊後国に侵入した薩摩軍は玖珠郡にも侵入。次々と諸
城を落し、残った角牟礼城と日出生城を攻めるが、日出生城へ侵攻した新納忠元軍は大敗し
て攻略を断念。1587年角牟礼城を島津軍6000人で攻めるが、こちらも落城には至ら
ず。城主は森五郎左衛門鑑高、籠城の将は古後摂津守・妙法寺内蔵進・同信濃守・太田八郎
・長野安芸・平井弾正らとその軍およそ千人。籠城軍は積極的に山麓まで出撃し、松山とい
う所では激しい銃撃戦が展開された。4、5日後に敵兵を追撃して深追いし過ぎ、伏兵に掛
かって馬渡川の畔で討死する城兵も多かった。薩摩軍は三の丸の石垣まで攻め寄せたが、弓
の名手宿利外記に撃たれて敗退した。秀吉軍が島津征伐で西下したという報せを聞き、島津
軍は角牟礼城から撤退した。1593年豊臣秀吉は朝鮮出兵失態を犯した大友義統を除封、
1594年日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。1596年毛利高政が玖珠
郡・日田郡2万石を領有し、この時期に石垣を築かれたと推定される。1600年「関ヶ原
の戦い」後、毛利高政は佐伯城へ転封、一時、黒田孝高の預かりとなるが、1601年伊予
国より日田・玖珠・速見3郡1万4000石で来島〔久留島〕長親〔康親〕が入り、角牟礼
城の山麓に陣屋を構えて森藩を立藩した。その後、角牟礼城は廃城となる。2005年国指
定史跡、2017年続100名城に選定される。現在は山林、神社となり、曲輪、石垣、土
塁、井戸跡が残る。

【所感】県道43号線クス精密の辻から町道峯山線へ入って1.2km東進。左手の「角牟礼城
跡」看板を左折し、1.4km登ると三の丸の駐車場に着きます。他の城跡も訪ねている関係で
隅々まで撮れておらず、とりあえず「三の丸南端の石垣」→「大手門跡付近の石垣」→「二
の丸西曲輪」→「西門跡」→「二の丸西虎口」→「本丸」→「展望所」→「角埋神社」の順
で普通に周りました。次回は修繕中の本丸・三の丸・二の丸曲輪群・本丸曲輪群と、南麓の
久留島陣屋跡も含めてしっかり撮りたいと思います。






三の丸南端の石垣





三の丸→大手門跡までの道







大手門跡周辺の石垣



大手門跡



大手門跡→二の丸への道




二の丸曲輪群の1つ





二の丸西曲輪





西門跡





二の丸虎口





本丸曲輪群の2つ



本丸虎口



本丸







本丸の西側を囲む帯曲輪



本丸東の長い曲輪



展望所上の曲輪



展望所



角埋神社