甲斐 躑躅ヶ崎館
Tsutsujigasaki yakata
躑躅ヶ崎館跡【山梨県甲府市古府中町・大手3丁目・屋形3丁目】
武田神社【山梨県甲府市古府中町2611】
武田信玄公御墓所【山梨県甲府市岩窪町】
武田信玄公像【山梨県甲府市丸の内1丁目】
三分一湧水館【山梨県北杜市長坂町小荒間292−1】
【立地】平城
【別称】武田氏館
【国指定史跡】武田氏館跡
【歴史】1519年武田信虎が築き、信虎−晴信−勝頼3代60余年存続した居館である。
城下町、家臣団屋敷地、居館が一体となり、背後に詰城の要害山城を配した構造になってい
る。1521年勝千代〔晴信〕は信虎と正室大井夫人の間に生まれ、生地は要害山城〔もし
くは積翠寺〕と云う。1536年に元服し、室町幕府12代将軍足利義晴から「晴」を賜り
、名を勝千代→晴信に改名した。1536年「佐久郡海ノ口城攻め」が初陣とされ、154
1年父武田信虎を駿河へ追放して家督を継いだ。躑躅ヶ崎館を拠点に諏訪氏、高遠氏、小笠
原氏などと戦を重ね、1553年北信濃を除き、信濃をほぼ平定した。1553〜1564
年5度に亘る長尾景虎〔上杉謙信〕との合戦「川中島の戦い」は有名である。その後も諸国
へ侵攻し、1571年には甲斐国の他、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の
一部を得て、石高は120万石にまで達した。1572年三河侵攻に動いた信玄は、12月
「三方ヶ原の戦い」で家康軍を破り、1573年1月三河国野田城を落した。落城直後から
信玄は持病が悪化し、長篠城で療養後、4月12日帰国途中の三河街道で亡くなった。享年
53。信玄没後、家督を相続した勝頼は、1575年「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に
大敗し、以後急速に勢力が衰退。1582年「天目山の戦い」で自刃に追い込まれ、武田氏
は滅亡した。1938年国指定史跡、2006年日本100名城に選定され、現在は武田神
社などに変わり、曲輪、土塁、堀、石垣、井戸跡が残る。
【所感】念願の躑躅ヶ崎館跡を晴天で訪ねることが出来、大変嬉しい日となりました。高い
土塁や水堀も見応えがあり、しっかりお参りして巨峰ソフトクリームも食べました。菩提寺
を訪ねる時間はありませんでしたが、墓所やJR甲府駅前の信玄像を写真に収めることが出
来た点も満足出来ました。信玄は家康が唯一負けた武将であり、尊敬する人物でもあり、武
家諸法度は甲州法度次第を参考にしたものと云われています。
神橋
主郭南側の水堀
武田神社・主郭
武田神社の車祓所・主郭
信玄公御使用井戸・主郭
甲陽武能殿・主郭
姫の井戸・主郭
大手門跡・主郭
主郭東側の空堀
主郭北側の空堀
西門跡・主郭
主郭西側の空堀
北土橋・西郭
北枡形虎口・西郭
西郭北上段
井戸跡・西郭南下段
西郭南下段
南枡形虎口・西郭
南土橋・西郭
西郭南西角の水堀
大手石塁
土橋と土塁・大手
土塁・大手
味噌郭
稲荷郭
松木堀と梅翁郭
梅翁郭南虎口の石垣
集水口跡・梅翁郭
梅翁郭西虎口跡
武田信玄公御墓所
武田晴信室三条氏墓【県指定史跡】・円光院
武田信虎の墓【県指定史跡】・大泉寺
武田竜宝公の墓〔写真:左〕武田刑部少輔信廉屋敷跡〔写真:右〕
横田備中守高松屋敷跡〔写真:左〕小山田左兵衛尉信茂屋敷跡〔写真:右〕
土屋右衛門尉昌続屋敷跡〔写真:左〕山本勘助晴幸屋敷跡〔写真:右〕
真田源太左衛門尉信綱屋敷跡〔写真:左〕甘利備前守虎泰屋敷跡〔写真:右〕
真田弾正忠幸隆屋敷跡〔写真:左〕高坂弾正忠昌信屋敷跡〔写真:右〕
穴山玄蕃頭信君屋敷跡〔写真:左〕板垣駿河守信方屋敷跡〔写真:右〕
穴山玄蕃頭信君屋敷跡〔写真:左〕山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡〔写真:右〕
馬場美濃守信春屋敷跡〔写真:左〕多田淡路守満頼屋敷跡〔写真:右〕
三枝勘解由左衛門尉守友屋敷跡〔左〕原隼人佑昌胤屋敷跡〔右〕
小畠山城守虎盛屋敷跡〔写真:左〕武田典厩信繁屋敷跡〔写真:右〕
一条右衛門大夫信竜屋敷跡〔写真:左〕秋山伯耆守信友屋敷跡〔写真:右〕
飯富兵部少輔虎昌屋敷跡〔写真:左〕小幡豊後守昌盛屋敷跡〔写真:右〕