越前 敦賀城
Tsuruga castle

   敦賀城跡【福井県敦賀市結城町・三島町1丁目】
    真願寺【福井県敦賀市結城町14−1】
    来迎寺【福井県敦賀市松島町2丁目5−32】
 敦賀西小学校【福井県敦賀市結城町8−6】
   敦賀病院【福井県敦賀市三島町1丁目6−60】
敦賀郷土博物館【福井県敦賀市三島町1丁目3−3】

【立地】平城

【歴史】1583年蜂屋出羽守頼隆の築城とされる。1575年越前を平定した織田信長は武藤宗右衛
門を敦賀郡代に任じた。1582年「本能寺の変」で織田信長が没すると、武藤氏に替わって蜂屋出羽
守頼隆が入り、敦賀5万石の領主となる。頼隆は武藤氏の花城山城を捨て、笙の川の東岸に築城を始め
た。1589年頼隆は九州遠征中に病没し、替わって大谷刑部吉継が5万7000石で入り、12年の
在城中に拡張整備が行われた。秀吉に仕えた吉継は、1600年「関ヶ原の戦い」で西軍に属して敗戦
、自害。徳川家康は領地を没収し、田中清六・権田小三を代官として置いた。1602年福井城主結城
秀康の支配下となるが、同年頃、城域の徳市村付近で火災が発生し、城内の一部を焼失したが復旧せず
、東堀は埋め立てられ、城は縮小した。1616年一国一城令で廃城となり、1624年小浜藩主京極
忠高、1634年小浜藩主酒井忠勝の所領となる。1682年小浜藩主2代酒井忠直が病没すると、嫡
男忠隆に10万3500石を相続し、忠直の遺言により、次男忠稠に越前国敦賀郡内5000石、近江
国高島郡内5000石、合わせて1万石が与えられ、敦賀藩を立藩した。1687年大番頭を命ぜられ
、敦賀郡東浦村鞠山に陣屋を構えた。敦賀藩は参勤交代を行わない定府大名で、領地支配は本藩の若狭
国小浜藩預かりであった為、陣屋のみが設置された。忠稠の後、忠菊〔大番頭〕−忠武−忠香〔奏者番
兼寺社奉行・西の丸若年寄〕−忠言〔大番頭〕−忠蓋〔大坂定番〕と続き、次の忠眦は、1861年1
800石加増を受け、1862年城主格に昇格。参勤交代の義務が生じた為、交通の便を考えて安房国
内に陣屋を新設した。最後の藩主忠経は、1870年3月藩名を鞠山藩に改め、9月本藩の小浜藩に合
併して鞠山藩は廃藩。1871年廃藩置県によって敦賀県が誕生し、敦賀県庁が置かれた。現在は小学
校・病院・寺社・博物館・住宅などに変わり、真願寺、敦賀西小学校に城跡の石碑が立ち、来迎寺に中
門が移築されている。

【所感】結城町全体とその南の三島町1丁目の一部が城域とされます。敦賀西小学校辺りに北町奉行所
・南町奉行所・代官屋敷などが、敦賀病院の東隣りに陣屋(御茶屋)が在ったとされます。結城町北端
の側溝は堀跡になります。



 

「敦賀城の跡」の石碑・敦賀西小学校〔写真:左〕移築 敦賀城中門・来迎寺〔写真:右〕