尾張 浮野城
Ukino castle

   浮野合戦場跡【愛知県一宮市千秋町浮野字海道】
倉原設備工業所倉庫【愛知県一宮市千秋町浮野字海道24】

【立地】平城

【歴史】1555年清洲城主となった織田信長は、1557年謀叛の疑い強き弟信行〔信勝
〕を殺害し、1558年尾張上四郡を治める岩倉城主織田信賢へ攻撃を仕掛ける。5月28
日織田信長は2000の兵を率い、清洲から大きく迂回して岩倉城北5キロの浮野へ布陣す
るが、この日は小競り合いで終了。岩倉勢は岩倉城の防備、浮野への北上を阻止する為、岩
倉城西方の下津・北島に砦を設け、清洲勢に備えた。7月12日信長軍は再び2000の兵
を率いて足場の良い浮野へ布陣。犬山城主織田信清軍1000騎も加わり、総勢3000騎
。対する岩倉勢も同じく3000騎で、浮野川を挟んで対峙した。戦機熟し、敵味方入り乱
れて戦うこと二刻に及んだが、岩倉勢は城際まで追い詰められる。信長+信清勢は勝ちどき
を上げ、信長軍は南の清洲へ、信清軍は北の犬山へ引き上げるが、この様子を見た岩倉城中
軍は、犬山勢少数と見て追い討ちをかけた。この急報を受けた信長軍は取って返して信清軍
を援け、再度、激戦となる。信長軍は敵の主力に突入し、横槍を突っ立て攻め上げ、敗走す
る岩倉勢を城際まで追い詰め、敵の首900余を討ち取って撃破。その日の晩には清洲へ引
き揚げた。浮野合戦の翌1559年、信長は岩倉城主織田信賢を追放し、ほぼ尾張を統一す
る。城は鶯ヶ池近くに在ったようだが、池〔浮野合戦場址碑辺り〕は埋め立てられ、城跡の
場所は分からない。


【所感】県道171号線・県道154号線が交差する浮野信号交差点を東進し、次の信号を
北へ曲がります。左3本目の脇道を入り、最初の辻を右折した倉原設備工業所倉庫の前に古
戦場跡が在ります。2台止められる駐車場・浮野合戦関係略年表(桶狭間の戦いまで)の看
板・浮野合戦場址碑が有りますが、当地は戦没者900人の首級を埋めた浮剕(うぐいす)
首塚・鶯塚です。





浮野合戦場址碑