三河 梅坪城
Umetsubo castle
梅坪城跡【愛知県豊田市梅坪町2丁目か】
霊岩寺【愛知県豊田市平芝町6丁目−3】
霊岩寺【愛知県田原市田原町北番場3】
【立地】平城
【別称】梅ヶ坪城
【歴史】天文年間(1532〜1555年)に築かれた三宅隼人正師貞〔伊綱〕、師貞の次
男藤左衛門政貞〔1518〜1587年〕の居城とされる。1535年松平清康の「守山崩
れ」が起こると、織田信秀の西三河侵攻で梅坪城は織田方の城になるが、1545年松平広
忠の侵攻で落ち、1547年織田信秀勢の攻撃によって岩瀬山〔霊岩寺裏山〕で三宅師貞は
討死、政貞はその場で父の仇を討ち、梅坪城を死守した。その武勇を賞した信長は政貞に葦
毛の馬と鞍具一揃を贈り、旗下に招いたと云う。1548年松平広忠方に属し、1555年
織田勢の攻撃で、1556年織田家の家臣で伊保城主の平松与左衛門広忠が入る。1558
年松平元康の攻撃により、三宅藤左衛門政貞は弟の喜八郎兼貞と政貞の嫡男惣右衛門康貞と
ともに元康に従った。1558年康貞は14歳で家康に仕え、1567年『掛川城攻め』1
570年『姉川の戦い』1579年『高天神城攻め』1584年『小牧、長久手の戦い』1
590年『小田原城攻め』で活躍。同年、家康関東移封で武蔵国へ移り、廃城となる。現在
は住宅地となり、遺構は無い。
【所感】『史跡散策愛知の城』『豊田市古城と人物傳』『日本城郭全集』『豊田の中世城館
』を見ると、何れの書物も城跡の所在地は梅坪町3丁目とある。令和4年作成の『旧新地番
対照表』を見ると、旧3丁目はほぼ2丁目となっており、梅坪町2丁目は梅坪町区民会館や
下町公園の辺りになります。昭和13年の『挙母町全図』に霊岩寺北方に『三宅侯築城』と
記され、横に土井〔土塁〕と書かれている。これは『史跡散策愛知の城』で見た「三丁目の
梅坪消防団火の見櫓辺りを土居と呼び、昔、城あったという伝承がある」という内容に一致
する。やはり現在の2丁目〔旧3丁目〕で良いと思われる。
梅坪町区民会館・梅坪町2丁目
下町公園・梅坪町2丁目
三宅氏の旧菩提寺「梅坪山 霊岩寺」・豊田市〔写真:左〕三宅氏の菩提寺「梅坪山 霊岩寺」・田原市〔写真:右〕