伊勢 釆女城
Uneme castle

  采女城跡【三重県四日市市釆女町】
内部東小学校【三重県四日市市釆女町423−4】

【立地】平山城
【別称】北山城

【歴史】内部川×足見川の合流点北、標高70m、比高50mの丘陵上に築かれた平山城で
ある。城の起こりは、文治年間(1185〜1189年)の後藤基清、1260年の後藤基
秀がある。采女城を治めた後藤氏は藤原家の流れを汲む河内の武士で、代々源氏に仕え、源
頼義配下七将の一人であった。後藤実基の時、源義朝の家老格としてその子基清とともに、
1159年「平治の乱」、1185年「屋島の戦い」で活躍し、平治物語・源平盛衰記・吾
妻鑑に登場している。子孫は鎌倉幕府に仕え、六波羅評定衆・検非違使に任ぜられた。実基
−基清−基秀−基秋、方綱・藤勝ら後藤家は300年采女の地を治めて来たが、1568年
藤勝の時、信長の伊勢侵攻で討死し、落城となる。現在は曲輪、土塁、空堀、堀切、土橋、
井戸跡が残る。

【所感】内部東小学校の西方、内部川と足見川の合流点北に釆女城跡が在り、グーグルにも
采女城跡登城口・采女城跡が表示されます。内部川北側の道路沿いに登城口・城跡碑・歴史
看板・縄張り図が並び、登城口から谷間の登城道を100m程上ると、十の郭に着き、右→
八の郭、左←五の郭の分岐点になります。谷を登る敵が十の郭に入ると、八の郭から伸びる
細長い土塁や五の郭・一の郭からの攻撃、脅威にさらされます。右→に進み、堀切から八の
郭へ上ります。奥〔南〕には土橋から右に折れるL型の土塁、その内側に横堀を持っていま
す。十の郭へ戻り、反対←五の郭へ登ります。傾斜のついた枡形虎口に入ると、五の郭から
の攻撃を受けます。そのまま真っ直ぐ横堀に掛かる橋を上ると、枡形虎口を通って城内で最
も広い・高い一の郭に入ります。一の郭は周囲を土塁で囲んでますが、八の郭側だけ開いて
ます。もしかすると、一の郭×八の郭間に橋が掛かり、L型土塁から運ばれた物資を運搬し
たのでは…と勝手に妄想しています。一の郭の北には、横堀で仕切られた二の郭・三の郭が
並びます。どちらも土橋を渡って右へ折れるスロープ状の虎口を持っています。三の郭東側
の土橋は搦手でしょうか?三の郭の西に四の郭が在ります。五の郭×一の郭、一の郭×二の
郭、二の郭×三の郭間に横堀があるように、三の郭×四の郭間の窪地も堀のように感じます
。この窪地は十の郭と同様、谷間を登る侵入者に対し、二の郭の櫓台・三の郭・四の郭から
突き出した土塁から集中攻撃が可能な場所。三の郭×四の郭を繋ぐ土塁も戦時は兵士が往来
する通路になります。四の郭は谷側を除く三方を土塁で囲み、西側は堀切で尾根を遮断して
います。五の郭も堀切で尾根を遮断していますが、その先には枠を残して中をえぐったよう
な六の郭〔南東角にスズメバチの巣有り〕→腰曲輪→七の郭と続いています。堀切の外に在
る六の郭・七の郭・九の郭は、戦とは関係ない居館のような使われ方をしたのではないかと
推測します。勝手に妄想してますが、それほど面白い縄張り、撮り甲斐のある城跡です。





登城口







登城道



十の郭



一の郭×八の郭間の堀切



八の郭



八の郭南側の土橋と横堀



五の郭の枡形虎口





五の郭



一の郭×五の郭間の横堀



五の郭→一の郭へ渡る橋〔土橋〕



一の郭枡形虎口







一の郭



一の郭×二の郭間の横堀







二の郭



二の郭西端の土塁



二の郭北西端の櫓台



二の郭×三の郭間の横堀







三の郭



三の郭西端の土塁



三の郭東側の土橋



三の郭×四の郭間の窪地



三の郭と四の郭を繋ぐ土塁





四の郭



四の郭西側の堀切



五の郭×六の郭間の堀切



六の郭を囲む土塁



六の郭・笹林



七の郭・雑木林