琉球 浦添城
Urasoe castle

       浦添城跡【沖縄県浦添市仲間】
浦添グスク・ようどれ館【沖縄県浦添市仲間2丁目53−1】

【立地】平山城

【国指定史跡】浦添城跡

【歴史】標高133mの丘城で、発掘調査によると、13世紀末に野面積みのグスクとして
築かれ、14世紀後半〜15世紀前半に切石による大規模なグスクになったとされる。歴史
で見ると、神話の王統とされる天孫王統に替わって中山を平定した人物は、来琉した源為朝
と大里按司の妹との間に生まれた『尊敦』で、浦添按司となって中山を平定後、『舜天』を
名乗り、1187年舜天王統が始まる。舜天の後、『舜馬順煕』−『義本』と続き、126
0年『英祖』が中山国の王位就き、英祖王統が開かれた。英祖は浦添グスクと嶺続きの伊祖
グスクを拠点とする惠祖世主の世子と生まれたと云う。この時期、グスクは野面積みの低い
石垣が巡らされ、掘立柱の建物が造営されたと推測される。英祖王の代には中山国が豊かに
なり、久米島・慶良間・伊平屋、奄美大島も初めて入貢したとされ、王陵(ようどれ)・寺
院(極楽寺)も建設された。その後、2代大成−3代英慈−4代玉城−5代西威と続く。4
代目玉城王になると政治の腐敗が徐々に進み、琉球は三山時代へ突入する。5代目西威は幼
くして王位に就き、母が握る政権は弱体化が進む。1349年西威の死去と共に英祖王統は
滅び、1350年察度王統に継がれる。察度は若くして貿易を積極的に行い、富を蓄え、威
勢を誇っていた勝連按司も無視出来ない存在にまで成長した。勝連按司の娘を娶ることで、
その力は揺ぎ無いものになる。1372年察度は建国間もない中国と正式に国交を結び、中
国との貿易、朝鮮や東南アジアとの貿易も積極的に行った。1405年中国皇帝より冊封を
受け『琉球国中山王』として承認される。15世紀に入ると、佐敷グスクを拠点に海外交易
で富を蓄えた思紹・巴志父子の勢力の台頭が目覚ましくなり、1406年浦添グスクを攻略
する。1407年尚思紹が琉球国中山王に就き、拠点を浦添グスクから首里グスクへ移す。
第一尚氏王統の始まりである。1945年沖縄戦で日本軍の陣地〔前田高地〕が置かれ、浦
添グスクは米軍の集中攻撃を受けた。戦後は採石場となり、土木建築部材として城壁やその
地盤となっている琉球石灰岩も持ち出され、見る影も無い状態になる。1989年国指定史
跡となり、1996〜2005年『浦添ようどれ(王陵)』を復元、現在、城壁の復元が行
われている。

【所感】浦添グスクは、首里グスク以前の『中山王都』があった場所であり、その重要性か
ら王陵や城壁が復元され、グスクらしい雰囲気が感じられるようになりました。王陵という
と、首里城の『王陵』が有名ですが、『浦添ようどれ』も復元されて立派に蘇りました。こ
のグスクの一番の見所になります。首里城までの石畳路(復元)や拝所を撮り忘れている所
があるので、次回も訪ねたいと思います。































浦添ようどれ











浦添城跡の復元石垣



伊波普猷の墓



愛國知祖之塔跡



ディーグガマ



浦添家の屋敷跡か



殿・感謝祭や豊作祈願の場



浦添城の前の碑・復元 首里−浦添間『石畳道』の竣工記念碑



カガンウガー・井泉



御墓番屋敷跡・島袋家



浦添市西海岸の石切場跡・浦添ぐすく ようどれ館駐車場