豊後 臼杵城
Usuki castle


【立地】平山城
【別称】丹生島城・亀城・亀ヶ城・鼇城

【県指定史跡】

【歴史】1563年臼杵川河口に浮かぶ丹生島〔標高18m、比高16m〕に築かれた大友宗麟〔義鎮
〕の居城である。1561年北九州・北豊前の戦いで毛利氏に大敗した宗麟は、毛利氏の備えとして丹
生島に築城を決め、1563年正月に着工、7月竣工、8月府内から臼杵へ居城を移した。四方が断崖
の東西に長い島を利用した海城〔水城〕だが、築城に際し、重臣吉岡宗観を上洛させ、室町幕府13代
将軍足利義輝の許可を得て、家臣の角隅石宗や浪人だった明智光秀らが縄張りを担当したと云う。寒村
に城下町・港が築かれ、南蛮貿易で鉄砲・大砲・火薬などを入手。キリシタン信者であった宗麟は、1
567年会堂、1578年城内に礼拝堂、1580年修練所、1582年大聖堂を築いた。1576年
宗麟は家督を義統へ譲り、1578年「耳川の戦い」で薩摩の島津義久に大敗、1582年には肥後・
筑後・筑前を失い、領地は豊後国のみとなった。1586年島津家久軍2000が来襲、南蛮国より入
手した「国崩し」と称される大砲を島津軍に打ち込み、多くの被害を与え、撤退させた。1587年宗
麟没後、臼杵鎮理の居城となり、1593年「文禄の役」の失敗で大友義統が除国されると、1594
年福原直高〔石田三成の妹婿〕が6万石で入封。1597年太田一吉が3万5000石で入るが、16
00年「関ヶ原の戦い」で西軍に与して除封となり、美濃国八幡から稲葉貞通が5万石で入封し、臼杵
藩を立藩した。1603年貞通没後、典通が襲封し、1614~1615年「大坂の陣」に参戦。16
26年一通が継ぎ、1637~1638年「島原の乱」に出陣。1641年次の信通は府内城・島原城
の城番を務めた。1663年景通-1694年知通-1706年恒通-1720年董通-1737年泰
通-1768年弘通-1800年雍通-1820年尊通-1821年幾通-1844年観通-1862
年久通が継ぎ、1871年廃藩置県を迎えた。現在は公園となり、2001年大門櫓を復元。畳櫓〔天
保年間(1830~1844年)に再築〕、卯寅口門脇櫓〔嘉永年間(1848~1854年)に再築
〕、石垣、空堀、曲輪、井戸跡などが残る。

【所感】嘗ては海に囲まれていた丹生島(臼杵城)も、今は埋め立てによって独立丘陵に姿を変えてい
ます。丘陵の中央部(二の丸)は運動場になっていますが、それ以外のエリアは櫓・門・石垣・横堀・
井戸跡などが残り、城の雰囲気が感じられます。私は近くの観光交流プラザで貰った臼杵城のマップを
片手に、隅々まで2時間ほど撮影して周りましたが、ここも石垣好きには堪らない城の1つです。




天守台・本丸



本丸







本丸-二の丸間の空堀



現存 卯寅口門脇櫓・卯寅口〔搦手口・井戸丸〕


 

亀首櫓跡・本丸〔写真:左〕儀太夫前櫓跡・二の丸〔写真:右〕

 

井戸跡・二の丸〔写真:左〕大友宗麟公碑・二の丸〔写真:右〕




着見櫓跡・二の丸



二の丸北面の石垣



 

海鹿櫓跡〔写真:左〕海鹿櫓脇の井戸跡〔写真:右〕





時鐘櫓跡



会所櫓台・二の丸




復元 大門櫓



大門櫓から見た畳櫓



井楼櫓台・二の丸





現存 畳櫓





鐙坂



亭櫓台



臼杵城跡の石碑



西側から見た臼杵城跡