肥後 宇土古城
Uto old castle

     宇土古城跡【熊本県宇土市神馬町】
      西岡神宮【熊本県宇土市神馬町577】
JA熊本うき宇土斎場【熊本県宇土市神馬町349−1】

【立地】丘城
【別称】宇土城・名和城

【国指定史跡】宇土城跡

【歴史】平安時代(794〜1185年)1048年の築城とされ、通称「西岡台」と呼ば
れる標高39m、比高35mの丘陵上に築かれた城である。菊池氏一族が城主であったが、
室町時代(1336〜1573年)なると、宇土氏、名和氏の城となる。宇土氏は菊池氏の
一族と伝えられ、1484年頃、守護の菊池重朝の叔父菊池為光が宇土城に入って宇土氏を
称した。人吉地方を本拠とする相良氏の援助を受け、菊池重朝と守護職を争い、重朝の子能
運の代になり、菊池氏の居城隈府城を攻め、1501年守護職に就いたが、1503年菊池
能運の反撃で為光は討死。八代を本拠とする名和顕忠が、1505年人吉の相良氏と対立し
、宇土城へ本拠を移した。名和氏は伯耆国の出で、正平年間(1346〜1370年)、名
和顕興が肥後へ移住したと云う。以後、名和城と呼ばれ、80年余り名和氏〔4代目の行興
から宇土氏を名乗る〕が続き、その間、相良氏と豊福城〔宇土市松橋町〕の攻防が繰り返さ
れた。古文書によると1538年と1542年に火災が起きている。元亀・天正年間(15
70〜1593年)頃、大友氏に属し、1578年頃になると島津氏の圧力に屈し、158
7年秀吉によって九州が平定されると、島津氏は大隅・薩摩に押し戻され、天草・球磨を除
く肥後全体は佐々成政に与えられた。しかし、翌1588年肥後国人一揆が起こり、鎮圧出
来なかったことを理由に成政は摂津国尼崎で切腹。国人の多くも滅ぼされたが、宇土顕孝は
免れたが、弟顕輝は一揆に加担して滅亡したと云う。成政没後、肥後は飽田・託摩・山本・
山鹿・合志・菊池・玉名・芦北・阿蘇9郡25万石は加藤清正、益城・宇土・八代3郡24
万石は小西行長に与えられた。1589年行長は宇土城を本拠を置いて新城の築城を始め、
この頃、宇土古城は廃城になったとされる。1979年国史跡に指定され、現在は曲輪、堀
、土塁が残る。


【所感】近世宇土城跡の西方600mに位置する東西に長い丘陵上に宇土古城跡が在ります
。一般的な土の城と違い、丘陵の東の頂に「千畳敷(標高37m)」、少し離れた西の頂に
「三城(標高39m)」、これらの主要曲輪を囲むように幾重にも腰曲輪が存在します。「
千畳敷」の南麓に大手門が在ったとされ、「三城」の西側には幅10〜15m・深さ5〜7
m・長さ310mの横堀と土塁が残ってますが、草木が生い茂り撮影は困難。国指定史跡と
いうことで大きな看板や各遺構に説明用の石板が有り、分かりやすくなっています。宇土古
城跡〔中世宇土城跡〕→近世宇土城跡の順で行きましょう。




西岡神宮北側地区



腰曲輪・西岡神宮北側地区



千畳敷への登城道





千畳敷の虎口



千畳敷・主郭

 

16号建物跡・千畳敷〔写真:左〕17号建物跡・千畳敷〔写真:右〕



19号建物・千畳敷





千畳敷を囲む堀



千畳敷を囲む未完成の堀

 

国指定史跡 宇土城跡の石碑〔写真:左〕発掘調査で出土した五輪塔・宝篋印塔〔写真:右〕



三城(さんのじょう)





三城西端の土塁と導水状遺構





三城の掘立柱建物跡