三河 渡通津城
Watsuzu castle
渡通津城跡【愛知県岡崎市渡通津町東久後】
【立地】山城
【別称】渡通津古屋敷・渡津村屋敷
【歴史】永正年間(1504〜1521年)、松平宗家5代長親〔長忠〕が渡通津・日影2
39石を領し、日影山もしくは日顕山に築いたと云う。城主に小原九郎左衛門、黒柳市右衛
門、鈴木金左衛門の名がある。天正年間(1573〜1592年)小原忠鎮が渡通津・日影
39石を得て、江戸期は庄屋を小原家が世襲し、1600年小原九郎右衛門勝正−小原九郎
右エ門勝重−小原源七勝信−1645年忠太夫−1648年九郎兵衛−1657年忠太夫−
1694年藤左衛門−1722年源七−1743年源七−1755年組頭次右衛門−177
0年源七−1790年源七と続いた。場所は不明、遺構は無いと云う。
【所感】『松平往還』沿いの渡通津村中心部、説教所辺りが渡津村屋敷跡とされます。渡通
津城は本当に有ったのか?我が家にある本の内容を書き出してみると、◎岩津町誌→渡通津
城址:永正年間松平長親公が現時の日影、渡通津石高二百三十九石余を領して日影山上に在
城してゐたと云う事であるが今は城跡として何も残っていない ◎新編岩津町誌→渡通津城
跡:渡通津と日影の中間にある日顕山に永正年間(1504〜1521年)松平長親が築城
した。長親は渡通津・日影239石余を領した。昔時、駒立−渡通津−日影−松平へ山の峯
づたいに通ずる要路があった。廃城など不明である ◎日本城郭全集→渡通津城:永正年中
(1504〜1521年)松平長親が渡通津、日影を領し、日顕山に城を築いたという。額
田郡志には城跡はあるとしているが、現在は残っていない ◎定本西三河の城→永正年間松
平長親が日影山に築城したという。伝承地の西麓には松平往還が通じている。遺構はない
◎日本城郭大系→松平長親在城。現在、遺構は消滅している ◎中世城館跡調査報告書→渡
通津城:渡通津町字日影田 小原九郎左衛門ほか〔二葉〕松平長親〔西城〕渡通津古屋敷〔
二葉〕 ◎史跡散策愛知の城→永正年間(1504〜1521年)松平長親が渡通津・日影
を領し、日影山に築城したといわれている。遺構はないが西麓には「松平往還」と呼ばれる
当時の主要道路があり、岡崎−滝−駒立−渡通津−日影−滝脇−松平へと通じている。とあ
る。城の場所を要約すると、『日影−渡通津間の尾根上に伝承地の日影山〔渡通津城跡〕が
在り、西麓に松平往還が通る。現在は何も残っていない』ということなるが、遺構が無けれ
ば確かめようがない。西麓と言っているので、松平往還の東側〔字東久後・字トウモ〕の山
になるが、『字トウモ』になると、北面の滝脇城〔日影町〕と背中合わせになる。こんな近
い場所に2つも城が必要だろうか。他に松平往還が西麓となる山を考えると、渡通津町南側
の尾根〔日影田〕になる。もしここに城があったとするなら、日影、渡通津それぞれに山城
を備えていたと言える。しかし、先程と同じように確かめようがない。

渡津村屋敷跡辺り
