伊豆 山中城
Yamanaka castle

 山中城跡公園【静岡県三島市山中新田】
    宗閑寺【静岡県三島市山中新田】
諏訪・駒形神社【静岡県三島市山中40−1】
  山中城売店【静岡県三島市山中新田410】
山中城商工組合【静岡県三島市山中新田410−4】

【立地】山城

【国指定史跡】山中城跡

【歴史】永禄年間(1558〜1569年)、北条氏康の築城とされる。小田原城を本城と
する氏康は、西側の備えとして「箱根十城」を築き、その要となる根城を鷹之巣と山中とし
た。氏康は山中城を番城していたが、やがて三家老の一人松田右兵衛大夫康長を城将に命じ
、城主を北条氏勝とした。1589年秀吉の「小田原征伐」の報が入ると城を改修し、要所
に櫓を揚げ、虎口を確固した。1590年3月初旬、秀吉の軍勢は伊豆諸城砦を落とし、山
中城へ攻め入った。秀吉軍の箱根攻めの主将は徳川家康、山中城攻めの総大将は羽柴秀次が
務め、これに中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らが従った。3月29日
秀吉の「山中城攻め」が始まる。山中城の主将は松田直良、更に北条氏の重臣朝倉元春・間
宮康俊・間宮信俊・間宮信冬・間宮信重・多米長定・長谷川近秀らが立て籠もった。松田直
長以下4000の城兵に対し、豊臣軍堀秀政の右翼勢2万・家康左翼勢3万・豊臣秀次の大
手軍2万が対峙した。3月29日午前10時、秀次は岱崎砦を攻め、間宮勢を討ち破り、第
1戦が行われた。岱崎砦を落とした後、これを陣所として中村一氏・一柳直末の決死隊は堀
を渡って急襲に出て、三の丸を護る間宮康俊と激しい合戦の後、これを討ち取ったが、一柳
直末は討死、残兵50騎で城主北条氏勝と相対した。この時、西の丸は秀次軍に攻め入られ
、残るは本丸のみとなった。守将松田康長は氏勝を城外へ送り出すと、残兵200人と共に
立て籠もったが、7万の大軍を前に討死した。落城後、家康勢は山中城を陣所としたらしい
が、7月小田原落城後、山中城も廃城になったと云う。1930年国史跡に指定され、20
06年日本100名城に指定。現在は山中城跡公園と称され、曲輪、土塁、横堀、障子堀、
畝堀、水堀跡などが残る。


【所感】三島市街から国道1号線を東進すると、次第に山中城跡の表示板が目に入って来ま
す。南の「岱崎出丸」と北の「山中城跡公園」を二分するように国道1号線が走っており、
山中城売店・山中商工組合の前に駐車場が在ります。やっぱりここへ来たら、「畝堀」「障
子堀」を見ないと!特に西櫓・西の丸周りは見事なもので、元西櫓−二の丸間・本丸−二の
丸間・岱崎出丸南西側でも「畝堀」が見られます。各曲輪を囲む土塁もしっかり固められ、
土の城を堪能出来るようになってます。国道1号線を更に東進すると、箱根・芦ノ湖を経て
、石垣山一夜城跡、小田原城も在り、城好きにはたまらないコースになっています。





三の丸二重堀・外側の空堀



三の丸二重堀・内側の水路堀



田尻ノ池




箱井戸跡







箱井戸から二の丸までのアプローチ







傾斜している二の丸











西櫓



西櫓辺りから見た富士山



西櫓南側の畝堀



西櫓西側の畝堀





土塁に囲まれた西の丸





西の丸見張台



西の丸南側の畝堀



西の丸南側の畝堀と障子堀





西の丸−西櫓間の障子堀







西の丸西側の障子堀





元西櫓



元西櫓−二の丸間の畝堀





元西櫓−二の丸間の架橋





二の丸北端の土塁



二の丸北東角の櫓台



本丸−二の丸間の畝堀



本丸−二の丸間の架橋





本丸



諏訪・駒形神社・本丸





天守櫓台・本丸



本丸−北の丸間の架橋







北の丸



北の丸北側の横堀



北の丸−天守櫓台間の畝堀



本丸北側の畝堀



諏訪・駒形神社入口



三の丸・宗閑寺・山中公民館



北条方松田康長・間宮康俊らの墓〔左〕豊臣方一柳直末の墓〔右〕・三の丸宗閑寺



南櫓跡・芝切地蔵



御馬場北堀・岱崎出丸



出丸御馬場・岱崎出丸



出丸御馬場西端の土塁・岱崎出丸



出丸御馬場堀・岱崎出丸









構築途中の曲輪・岱崎出丸



すり鉢曲輪見張台・岱崎出丸



すり鉢曲輪見張台から見た富士山



一の堀・岱崎出丸



すり鉢曲輪・岱崎出丸



武者溜り・岱崎出丸