肥後 八代城
Yatsushiro castle
八代城跡・八代宮【熊本県八代市松江城町7−34】
八代市役所【熊本県八代市松江城町1−25】
八代市厚生会館【熊本県八代市松江城町1−47】
麦島城跡【熊本県八代市古城町】
【立地】平城
【別称】松江城・白鷺城・不夜城・不知火城
【県指定史跡】
【国名勝】旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園
【歴史】1587年「九州征伐」の後、豊臣秀吉は肥後国を佐々成政に与えたが、失政→改
易となり、肥後北半を加藤清正、南半を小西行長が領することになった。1588年行長は
家臣小西美作に命じて麦島城を築城するが、1600年「関ヶ原の戦い」で西軍に与した為
、行長の本城である宇土城と支城の麦島城は加藤清正によって攻め落とされた。清正は肥後
・天草52万2000石で熊本藩を立藩。1611年清正没後、子の忠広が2代藩主となり
、1612年家老加藤正方が麦島城代となる。1615年「一国一城令」で麦島城は存置を
許されたが、1619年の大地震で倒壊。2代藩主忠広は幕府に新城築城の許可を得て加藤
正方に築城を命じ、1622年麦島城の北1キロ程、球磨川の北岸に八代城を完成させた。
しかし、1632年熊本藩2代藩主忠広は理由不明の改易、出羽国丸岡へ移され、八代城代
加藤正方は広島城主の浅野氏を頼り、風庵と号して茶道三昧の余生を送った。替わって豊前
国小倉39万石から細川忠利が54万石で入封、豊前国中津城で隠居中の父忠興が八代城へ
入った。1645年忠興没後、熊本藩主細川光尚は老臣松井興長を八代城代に命じ、8代続
いた。1672年落雷により大・小天守、櫓門、櫓、御殿などを焼失、1676年天守以外
を再建。1797年失火により本丸殿舎、三重櫓などを焼失、1803年再建。1870年
廃城となり、1872年以降、建物は破却、本丸大書院は学校に転用するために移築された
が、1986年に焼失。三の丸永御蔵御門が春光寺に移築されている。2017年続日本1
00名城に選定。現在は本丸の石垣、水堀が残る。
【所感】今回は水堀に囲まれた本丸エリアのみを撮って来ました。往時、本丸御殿が在った
中央部は八代社の社殿が建っており、参拝者が渡る神橋は後世に造られたものです。お薦め
の遺構は表桝形虎口・搦手口辺りの石垣、大天守と続櫓で繋がれた小天守の石垣です。倒壊
の恐れがある為、天守台には登れませんが、その他は石垣上を歩けるので、いろいろな撮り
方が出来て楽しかったです。
表桝形虎口
高麗門跡・表枡形虎口〔写真:左〕頬当御門跡・表枡形虎口〔写真:右〕
磨櫓跡・磨櫓台
三階櫓跡・三階櫓台
九間櫓跡・九間櫓台と埋門跡
唐人櫓跡・唐人櫓台
本丸搦手口
横櫓跡(舞台脇の櫓跡)・横櫓台
宝形櫓跡・宝形櫓台
大天守台
大天守台と小天守台
月見櫓台