伊勢 四日市陣屋
Yokkaichi jinya

四日市陣屋跡・中部西小学校【三重県四日市市北町2−23】

【立地】平地
【別称】四日市宿陣屋・四日市代官所

【歴史】1603年天領陣屋として築かれ、1590年徳川家康が関東移封となった際に得
た飛地であり、上洛時の宿泊所であったと云う。初代代官は水谷九左衛門光勝で、当地に常
駐、その後の代官も陣屋に常駐した。1716年信楽代官多羅尾氏の管轄となり、四日市陣
屋は出張陣屋となる。1724年四日市などの幕府直轄領は大和郡山柳沢吉里の領地となり
、大和郡山より代官が派遣された。1801年再び天領となり、信楽多羅尾氏の管轄となる
。多羅尾氏は、1600年信楽代官に任命されてから代々世襲し、関東郡代伊那氏に次ぐ1
500石余の知行地を宛がわれた異例の代官であった。陣屋は扇型の敷地を掘・土塁で囲み
、表門に土橋、裏門は板橋が架かる。防御性が高いことから家康の宿所を利用したものとさ
れる。1868年明治維新後、陣屋の建物は度会県支所→安濃津県支所→三重県庁として使
われたが、1876年12月伊勢暴動の際、暴徒の放火で建物は焼失した。現在は小学校と
なり、遺構は無い。


【所感】中部西小学校南側の校門横に陣屋の看板が在ります。掘も埋められ、扇の形も無く
なり、方形区画の小学校となっています。





四日市宿陣屋の看板・中部西小学校