伯耆 米子城
Yonago castle
米子城跡・湊山公園【鳥取県米子市久米町】
鳥取大学医学部附属病院【鳥取県米子市西町36−1】
鳥取県西部医師会【鳥取県米子市久米町136】
【立地】平山城
【別称】久米城・湊山城・湊山金城・飯山城
【国指定史跡】米子城跡
【歴史】応仁・文明年間(1467〜1487年)、伯耆国守護の山名教之の配下、山名宗之の築城(
飯山城)が始まりと伝わる。米子城が史料上で明確になるのは、1566年7月安芸の毛利氏が月山富
田城の尼子氏を滅ぼし、中国一円にその覇権を広げ、米子城に福原次郎大輔元秀を配してからである。
1569年尼子氏の旧臣山中鹿之助幸盛は、主家再興を意図して旗を挙げた。1571年3月尼子十勇
士の一である秋上伊織介久家は、西伯耆の重鎮たる毛利氏の尾高城を攻撃しようと、先ず通り道の米子
城を攻撃。伊織介は陣中で病となり、家臣の羽倉孫兵衛が代わって海上よりおよそ500騎の軍勢で攻
め、城将福原元秀を討った。しかし、吉川氏の反撃は強く、因幡・伯耆を中心に戦いが繰り返されるが
、1578年7月播磨上月城の戦いで尼子氏は敗れ、勝久は自刃、山中幸盛も最期を遂げた。その後、
米子城は吉川広家の城となり、居城を月山富田城とした。山城の不便さを感じていた広家は月山富田城
を捨て、米子に新城(湊山城)を計画、築城奉行に古曳長門守吉種を任じた。1591年着工。〔広家
時代に三重四階の小天守が完成〕1592年「朝鮮征伐」が始まり、広家も築城工事を中断して従軍、
しかし、築城奉行の古曳吉種が朝鮮で病死、1598年広家は凱旋して築城を再開するが、1600年
「関ヶ原の戦い」の際、豊臣方で敗れ、米子城未完のまま周防国岩国6万石へ移った。替わって駿河国
府中14万5000石藩主中村一氏の嫡子一忠が3万石の加増を受け、伯耆17万5000石で米子藩
を立藩。〔1602年頃、四重五階の大天守が完成〕一忠は松平伯耆守一忠を称したが、わずか12歳
であった為、執政は横田内膳村詮が務めた。1609年5月一忠が20歳で没し、伯耆中村家は断絶。
伯耆は三分され、7月美濃国黒野から加藤左近大夫貞泰が米子城へ、美濃国今尾から市橋下総守長膳が
東伯八橋城へ、伊勢国亀山城主関一政が日野の黒坂城に封ぜられた。1614〜1615年「大坂の陣
」の戦功により、1617年加藤貞泰は伊予国大洲へ転封となり、1618年3月姫路52万石池田新
太郎光政が因幡・伯耆2国を領主として鳥取城32万石へ入った。米子城は重臣で同族である池田出羽
守由之〔3万石〕が城を預かったが、3月14日急死した為、その子の由成が継いだ。1632年因幡
と備前の国替えにより池田光政は岡山城へ移り、池田光仲が鳥取城へ入った。米子城は光仲の家老荒尾
内鋤匠助成利が1万5000石が入り、その後、成直−成重−成倫−成昭−成昌−成熙−成尚−成緒−
成裕と続き、明治を迎える。2006年国史跡に指定され、現在は曲輪、石垣、井戸跡などが残る。
【所感】私は国道9号線から鳥取大学医学部附属病院の南側を走り、米子城跡西麓〔湊山公園〕の駐車
場に車を止め、“城山の池”の場所から登城しました。本丸の北に少し離れて内膳丸、尾根道で繋がれ
た本丸には修復箇所も含めて立派な石垣群を見ることが出来ます。ここに天守、或いは櫓・門といった
建物が建てば、更に観光客も増えると思いますが、石垣好きの私としては、今の状態でも十分に楽しめ
ます。城跡の東麓で鳥取県西部医師会の前に二の丸枡形虎口がしっかり残り、こちらも必見です。
旧小原家長屋門【米子市指定有形文化財】〔写真:左〕米子城跡の碑と枡形虎口入口〔写真:右〕
二の丸南東の枡形虎口
内膳丸南辺りの虎口〔写真:左〕内膳丸虎口脇の石垣〔写真:右〕
薬医門跡辺りから見た本丸の石垣
薬医門跡と番所跡付近
小天守台南側の本丸への道〔写真:左〕鉄御門跡付近〔写真:右〕
大天守台から見た小天守台〔写真:左〕大天守台の基礎石〔写真:右〕
本丸西端の門跡
水手御門跡〔写真:左〕遠見櫓台〔写真:右〕
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