出羽 米沢城
Yonezawa castle
米沢城跡・上杉神社・春日神社【山形県米沢市丸の内1丁目4-13】
林泉寺【山形県米沢市林泉寺1丁目2-3】
松岬神社【山形県米沢市丸の内1丁目1】
上杉城史苑【山形県米沢市丸の内1丁目1-22】
宮坂考古館【山形県米沢市東1丁目2-24】
米沢藩主上杉家墓所【山形県米沢市御廟1丁目5-30】
上杉記念館・旧上杉伯爵邸【山形県米沢市丸の内1丁目3-60】
米沢市博物館・置賜文化ホール【山形県米沢市丸の内1丁目2-1】
【立地】平城
【別称】舞鶴城・松ヶ岬城
【県指定史跡】
【国指定史跡】米沢藩主上杉家墓所
【歴史】1238年、鎌倉幕府の重臣大江広元の次男時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭とし
て赴任された際、築いたとされる。時広は長井姓を名乗り、以後150年、長井氏の支配が
続いた。1380年8代広房の時、伊達宗遠の攻略で落城、置賜は伊達氏の支配下となる。
8代宗遠-政宗-氏宗-持宗-成宗-13代尚宗と、伊達氏は伊達・信夫地方を本拠として
いたが、1532年14代稙宗の時、染川城から桑折西山城へ本拠を移し、1548年「天
文の乱」の後、15代晴宗は米沢城へ本拠を移した。1567年16代輝宗と最上義光の妹
義姫の嫡男として、米沢城で伊達政宗が生まれる。1577年元服、1579年三春城主田
村清顕の娘愛姫を正室として迎え、1581年15歳で初陣、勝利を収めた。1590年秀
吉の「小田原征伐」の後、1591年伊達政宗は岩出山城へ移封となり、代わって会津に配
された蒲生氏郷の一族郷安が3万5000石で入った。1598年蒲生氏郷の子秀行は家中
騒動で宇都宮へ転封、会津は上杉景勝が120万石で入封、米沢城は30万石で重臣直江兼
続が入った。1600年「関ヶ原の戦い」の際、石田三成に与した景勝は「慶長出羽合戦」
を起こし、戦後120万石から30万石へ減封、米沢城へ移された。景勝は兼続に城下の拡
張、最上川の護岸工事、農業用水の整備などを命じ、1608~1613年城の大改修を行
った。1619年兼続が病没、1623年景勝没後、上杉家は側室の子定勝が継いだ。16
45年綱勝-1664年吉良上野介義央の長子綱憲〔15万石に減封〕-1703年吉憲-
1722年宗憲-宗房-1746年重定を経て、1767年日向国高鍋藩主秋月種美の次男
勝興〔治憲・鷹山〕を養子に迎え、綱憲以降、傾いた藩財政が立て直される。治憲〔鷹山〕
は竹俣当綱を奉行として農業、産業、学問に力を入れ、自らも質素な食事、服装とし、江戸
仕切料、奥女中の削減など徹底して倹約を行った。1773年これらの厳しい政策に反対す
る重臣の七家騒動が起こるが、治憲は果断な処置を行い、鎮圧した。鷹山の政策は、178
5年治広〔重定の三男〕-1812年斉定〔治広の兄〕にも受け継がれ、これまでの借債は
完済された。1802年治憲は剃髪して上杉鷹山と号し、1822年死去。1839年斉憲
が最後の藩主となり、1871年廃藩置県を迎える。1873年城の建物が全て破却、二の
丸に在った藩の政庁は郡役所-町役場-市役所と利用された。1874年城跡を松が岬公園
と称して一般に開放され、1876年本丸跡である現在の地に上杉神社を移設。1896年
二の丸に茂憲〔斉憲の子〕の伯爵邸が建てられ、1902年上杉鷹山は松岬神社へ分祀。1
919年米沢市内の大火で上杉神社、伯爵邸などが焼失。1923年上杉神社社殿を再建、
1925年伯爵邸も再建されたが、1950年邸宅は米沢市に譲渡され、翌年より中央公民
館として利用、1979年以降、上杉記念館として一般公開されている。現在は曲輪、水堀
、土塁などが残る。2017年続日本100名城に選定される。
【所感】JR米沢駅の西方2キロに位置する米沢城跡は松が岬公園と称し、米沢市民・観光
客が集まる場所になっています。本丸を囲む水堀を渡ると上杉謙信祠堂跡、謙信公・鷹山公
の像などが在り、上杉神社まで説明看板を1つ1つ読むことで伊達・上杉・直江氏のいろい
ろを知ることが出来ます。城跡に隣接して米沢市博物館・上杉伯爵邸、お土産・食事の上杉
城史苑などが在り、少し離れて米沢藩主上杉家墓所、上杉家の菩提寺で直江兼続公・お船が
眠る春日山林泉寺、直江兼続・前田慶次の甲冑を展示する宮坂考古館など、歴史好きを飽き
させない史跡、施設が揃っています。
上杉謙信公像
上杉鷹山公像
舞鶴橋から見た本丸
本丸菱門跡と菱門橋
本丸北側の水堀
本丸 北東御三階櫓跡
本丸 南東角の上杉謙信祠堂(御堂)跡
上杉神社・本丸
春日神社・本丸
松岬神社・二の丸
上杉伯爵邸・二の丸
直江山城守兼続公とお船の墓・林泉寺
米沢藩主上杉家墓所入口【国指定史跡】〔写真:左〕初代上杉謙信公廟〔写真:右〕
2代上杉景勝公廟〔写真:左〕3代上杉定勝公廟〔写真:右〕
米沢藩主上杉家墓所【国指定史跡】