三河 米津城
Yonezu castle

 米津城跡【愛知県西尾市米津町丸之内・蔵屋敷・白沢】
米津小学校【愛知県西尾市米津町家下18】

【立地】丘城


【歴史】築城年は不明。米津左馬助勝政〔勝信・藤太夫道寿とも〕が中根城〔西尾市南中根
町小脇〕を落城させ、その南方の米津に築城したことに始まる。一説に祖父正重・父正種の
代で尾張から三河へ移ったとされ、松平宗家4代親忠に仕え、1493年「井田野の戦い」
で正種は戦功により矢作周辺で20貫を賜ったとある。勝政には藤蔵常春と小太夫政信の二
子があり、常春は松平宗家8代広忠・9代家康に仕え、1549年「安祥城の戦い」・15
60年「桶狭間の戦い」・1563〜1564年「三河一向一揆」・1572年「三方ヶ原
の戦い」などで得意の槍で戦功を重ね、徳川十六神将の一人となった。1612年没。政信
も兄常春とともに戦歴を重ねたが、1572年「三方ヶ原の戦い」の際、病を押して出陣し
て討死となった。常春の長子清右衛門清勝は、1600年「関ヶ原の戦い」で使番を務め、
後に堺奉行に任ぜられたが、1613年収賄容疑で阿波国へ流罪、1614年流罪地で処刑
、米津の名は政信の四男田政に継がれた。田政は、1584年「小牧、長久手の戦い」・1
590年「小田原征伐」で戦功を重ね、1600年「関ヶ原の戦い」の後、武蔵国都筑・下
総国印旛・相馬・上総港埴生・香取5郡内5000石を得て、1604〜1624年まで江
戸の町奉行を勤めた。1666年その子田盛は大坂定番となり、摂津国・河内国で1万石の
加増を得て1万5000石で大名となる。子孫は武蔵国久喜藩主−出羽国長瀞藩主として明
治まで存続した。城の場所はハッキリしないが、嘗て米津町丸之内は高台であり、ここに城
が築かれ、地続きの米津町蔵屋敷に居館が在ったという説がある。現在は田地、住宅となり
、遺構は無い。

【所感】西尾市街から県道12号線を北上し、矢作川に架かる米津大橋を渡って直ぐの米津
橋北信号を西へ曲がります。県道46号線を1キロ程走ると、右手の集落が田園に変わりま
すが、この丘上の集落端が米津町蔵屋敷になります。米津小学校の南西一帯です。道が非常
に細く、昔の集落を感じさせる地です。場所については異説もあります。





米津城跡辺りか