伊予 湯築城
Yuzuki castle

湯築城跡・湯築城資料館【愛媛県松山市道後公園】
     道後温泉本館【愛媛県松山市道後湯之町5-6】
松山市立子規記念博物館【愛媛県松山市道後公園1-30】

【立地】平山城
【別称】湯月城

【国指定史跡】湯築城跡

【歴史】1336年頃、河野通盛〔通治〕の築城とされる。河野氏は風早郡河野郷(松山市
北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(治承・寿永の乱)〔1180~
1185年〕で源氏方として活躍、戦功により鎌倉幕府から伊予国の統率権を得た。122
1年「承久の乱」の際、一族の多くは朝廷に味方して敗れ、これまで築き上げて来た地盤を
失い、一族離散の悲運に見舞われた。しかし、一族の中で通久だけは母が北条出身であった
ことから幕府側に属し、通久の孫通有が、1281年元寇(弘安の役)の活躍で家運を盛り
返した。南北朝時代(1336~1392年)になると、通有の子通盛はいち早く足利尊氏
〔北朝方〕に臣従して戦功を重ねた結果、河野家の惣領職を認められ、通信時代の旧領を回
復した。通盛は惣領家としての権威を固める為、温泉郡道後〔松山市〕に湯築城〔標高71
m、比高31m〕を築いて本拠を移した。その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛が
起こるが、足利将軍家と結び付き近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟・縁戚関係を持ちつ
つ、伊予国の守護としての地位を確立した。庶子家との争いを克服し、1535年頃、通宣
の子通直〔弾正少弼〕は湯築城の外堀・土塁を築き、娘婿の村上海賊衆〔来島通康〕との関
係を強化したが、後に離反、一族は徐々に衰退する。1585年秀吉の「四国攻め」で河野
通直は小早川隆景に湯築城を明け渡し、400年に亘る河野氏の伊予支配は終わる。158
7年河野道直は安芸国竹原へ移り、隆景は筑前国名島へ転封、福島正則が11万石で入り、
同年越智郡府中に移り、廃城となる。1888年道後公園と称して開放され、2002年国
指定史跡、2006年日本100名城に選定される。現在は曲輪、堀、土塁が残る。

【所感】道後温泉エリアの入口となる場所に在り、道後温泉本館の南400m程に位置しま
す。私も道後温泉に泊まった際は車で城跡の存在を知り、次回は絶対に訪ねようと思ってい
ました。湯築城跡の一角に正岡子規の記念博物館も在って、観光客も多く訪れる城跡です。
駐車場は北口Pと西口Pが在り、私は西口駐車場に停めて搦手門跡〔西口〕から入り、展望
台→内堀→外堀の順に回りました。展望台の場所が主郭に当たる「本壇」、その下段が副郭
となる「杉ノ壇」で、築城前から河野氏の別邸「湯の館」が在ったとされる場所です。内堀
と外堀に挟まれた南エリアに武家屋敷や庭園が復元されています。





搦手口・搦手門跡




搦手口-北口間の外堀



搦手口脇の外堀土塁



上級武士居住区の外堀土塁



子規記念博物館裏の内堀





西側の内濠





南側の内堀



石造湯釜・湯釜薬師【県指定文化財】





杉ノ壇



本壇二段目



展望台が建つ本壇・標高71m比高31m



武家屋敷1・家臣団居住区



武家屋敷2・家臣団居住区



外堀土塁断面図・土塁展示室・上級武士居住区



土坑〔ゴミ捨て穴〕・上級武士居住区





建物跡・上級武士居住区





遮蔽土塁



大手口・大手門跡