薩摩 知覧城
Chiran castle
知覧城跡【鹿児島県南鹿児島市知覧町永里】
知覧武家屋敷通り【鹿児島県南鹿児島市知覧町郡】
南九州市役所【鹿児島県南鹿児島市知覧町郡6204】
【立地】丘城
【国指定史跡】知覧城跡
【歴史】1197年薩摩国図田帳によると、当地は「知覧院」と呼ばれ、薩摩平氏の一族平
忠益が郡司として治めており、地頭として島津氏初代忠久が臨んでいた。その後、郡司・地
頭共に子孫に継承され、南北朝時代(1336〜1392年)になると、郡司の平忠世は南
朝方、地頭の島津久直は北朝方に属して各地を転戦し、共に没落した。1353年足利尊氏
は、島津氏第5代貞久の弟佐多氏初代の忠光に戦功として郡司知覧〔平〕忠世の遺領を与え
た。1417年島津氏8代久豊に反抗する伊集院頼久が薩摩南部を支配した際、一族の今給
黎(いまきいれ)久俊は知覧城主佐多親久の留守を襲撃し、知覧を支配したが、1420年
島津久豊の軍門に降り、佐多親久が城主に復した。その後、佐多忠山−忠将−久政−久慶−
種子島久時〔1595〜1599年〕−佐多忠充−忠治−久孝−久利−島津〔佐多〕久達−
島津〔佐多〕久豪−島津〔佐多〕久峯と、主に佐多氏の居城として継承された。現在は山林
となり、曲輪、空堀、土塁、竪堀などが残る。
【所感】県道23号線×県道232号線が交わる南九州市役所前信号交差点から、県道23
2号線を1200m程南下した丁字路を右折。500m程進んだ左手に知覧城跡の駐車場と
歴史が書かれたタイル貼りの城跡碑が在ります。城跡の入口は分かり辛いんですが、城跡碑
の背後120m程の「本丸・蔵之城・今城・弓場城」の標柱が有る場所で、山へ入って行く
幅広い道が登城口です。道は次第に細くなり、やがて本丸・蔵之城方面と今城・弓場城方面
に分かれる案内標柱が出て来ます。曲輪に「○○城」の名前が付いていますが、各曲輪が独
立した小山の頂に在る為、そう呼ぶのかも知れません。そして、曲輪間を「空堀」と呼んで
いますが、こちらも深く幅広いので、通常の空堀のイメージとは異なります。4つの曲輪「
本丸・蔵之城・今城・弓場城」を中心に「道無城・児城・式部殿城・蔵屋敷・殿屋敷・伊豆
殿屋敷・西ノ栫・東ノ栫・南ノ栫」といった沢山の曲輪が囲い、全てが想像を超えるスケー
ルの城郭です。雨天で撮影が思うに出来ませんが、ここに来れたことは満足しています。
知覧城跡の石碑・駐車場横
登城口
今城−本丸間の空堀
本丸桝形虎口
本丸を囲む土塁
藤之蔵の登り口
蔵之城桝形虎口
蔵之城を囲む土塁
蔵之城の掘立柱建物跡
本丸−蔵之城間の平場
今城と弓場城の分かれ道
今城の枡形虎口
今城
弓場城の虎口
弓場城
知覧武家屋敷通り