尾張 清洲城
Kiyosu castle

      清洲城跡【愛知県清須市朝日字城屋敷1−1】
     鍋片公民館【愛知県清須市鍋片2丁目40】
清洲ふるさとのやかた【愛知県清須市清洲古城479−1】

       隣松寺【愛知県豊田市幸町隣松寺126】
       菊泉院【愛知県あま市二ツ寺字屋敷69】
   今川塚・正覚寺【愛知県清須市須ケ口332】

    清洲宿本陣跡【愛知県清須市清洲2丁目2−2】
       良福寺【愛知県尾張旭市印場元町1丁目15−19】
       含笑寺【愛知県名古屋市東区東桜2丁目15−36】
       萬徳寺【愛知県稲沢市長野3丁目2−57】

【立地】平城
【別称】清須城
【天守の構成・形式】独立式望楼型天守

【清洲藩】1600〜1612年

【歴史】1405年頃、尾張守護職斯波義重の築城とされる。1478年頃、尾張守護代織
田敏定によって下津城から清須城へ守護所が移され、上四郡〔葉栗・丹羽・中島・春日井〕
支配の岩倉〔織田敏広〕に対し、「下の織田」として下四郡〔海東・知多・海西・愛知〕支
配の中心地となった。1555年那古野城から織田信長〔1534〜1582年〕が入り、
上四郡の岩倉を倒し、尾張を統一した。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元を倒した信
長は、1562年徳川家康と清須で同盟を結んで東を固め、1563年美濃国侵出を目的に
小牧山に居城を移した。1582年「本能寺の変」で信長が討たれると、織田家の家督相続
と遺領配分について清須で会議が行われた。結果、秀吉が押し進める信忠〔信長の嫡男〕の
遺児三法師が家督を継ぎ、信長の次男信雄〔1558〜1630年〕は尾張、伊勢、伊賀を
相続されて清須城へ入ったが、信長の後継者を巡って次第に秀吉に不満を抱いていく。信雄
は家康と盟約を結び、1584年「小牧、長久手の戦い」へと発展。家康軍は長久手で池田
恒興らを撃破したが、信雄の単独和議で終戦となり、所領を削減された。1590年「小田
原征伐」の際、信雄は秀吉に反して除封され、豊臣秀次〔1568〜1595年〕が57万
17371石で、1595年福島正則〔1561〜1624年〕が24万石で入る。160
0年「関ヶ原の戦い」の後、福島正則は安芸国広島へ転封となり、代わって家康の四男松平
忠吉〔1580〜1607年〕が入り、清須藩を立藩。1607年関ヶ原の戦傷がもとで病
死し、徳川の九男義直が入る。1609年尾張藩の居城を名古屋と決め、1610年名古屋
城を天下普請で築城を始める。1612年大天守が完成、城下の地割、町割も始まり、平行
して清須城下ごと名古屋城下へ移す「清須越し」も始まった。義直も名古屋城へ移り、清須
は廃藩、廃城となる。1988年模擬天守が建てられる。


【所感】清洲城は周辺に高い建物が無いことから、東名阪自動車道や東海道新幹線からその
姿を見ることが出来ますが、何の城か?疑問に思う人も多いようです。清洲城がどのような
姿であったか?分かりませんが、犬山城に似た模擬天守は堂々たる勇ましい雰囲気を出して
います。現在の五条川の位置は昔とは少し異なるようですが、信長もこの辺り歩いたであろ
う…と想うと、感慨一入。清洲天守から2キロ程南の正覚寺に今川塚が在ります。1560
年「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取った織田信長は、義元塚を築いて丁寧に葬ったとさ
れます。1661年今川塚供養碑が建てられ、2007年個人から正覚寺へ移されました。




濃姫像と織田信長公像・清洲公園

 

右大臣織田信長公古城跡の石碑・清洲古城跡公園〔写真:左〕清洲城墟碑・清洲古城跡公園〔写真:右〕

 

織田信長公を祀る社・清洲古城跡公園〔写真:左〕清洲古城趾の石碑・清洲古城跡公園〔写真:右〕

 

清洲古城趾の石碑・五条橋横〔写真:左〕清洲城の石碑・清洲城入口〔写真:右〕

  
 
 

三重四階地下1階 模擬天守・清洲文化広場






清州城天主閣1階・清洲文化広場





清州城天主閣2階・清洲文化広場







清州城天主閣3階・清洲文化広場





清州城天主閣4階・清洲文化広場



天守最上階から見た大手橋

 

模擬 信長塀・清洲城〔写真:左〕清洲城の石垣〔写真:右〕

 

模擬 搦手門〔写真:左〕清須城土居之趾の石碑・松蔭神社跡・鍋片公民館横〔写真:右〕

 

五条橋と五条川〔写真:左〕大手橋〔写真:右〕

 

美濃路 清洲宿本陣跡〔写真:左〕正覚寺の今川塚〔写真:右〕

 

家康の四男松平薩摩守忠吉公の墓・隣松寺〔写真:左〕福島正則公供養塔/記念碑・菊泉院〔写真:右〕

 

清洲城門・萬徳寺〔写真:左〕清洲城門・含笑寺〔写真:右〕



清洲城裏門・良福寺