三河 松平城
Matsudaira castle
松平城跡【愛知県豊田市松平町三斗蒔】
深見工業【愛知県豊田市松平町廣見2−1】
大橋護謨工業【愛知県豊田市松平町生ヶ塚42】
松平東照宮【愛知県豊田市松平町赤原13】
妙昌寺【愛知県豊田市王滝町覚庵16】
【立地】山城
【別称】郷敷城・郷式城・松平村古城
【国指定史跡】松平氏遺跡(松平城跡、松平氏館跡、高月院、大給城跡)
【市指定史跡】
【松平宗家】親氏 ― 泰親 ― 信光 ― 親忠 ― 長親〔長忠〕 ― 信忠 ― 清康 ― 広忠 ― 家康
【松平太郎左衛門家】信広 ― 長勝 ― 勝茂 ― 信吉 ― 親長 ― 由重 ― 尚栄 ― 重和 ― 信和
= 親貞 ― 尚澄 ― 親相 = 信乗 ― 信言 ― 信汎 ― 頼戴 ― 信英
【歴史】応永年間(1394〜1428年)頃、御城山〔標高300m〕に中山七名などの
備えとして松平宗家〔松平太郎左衛門家〕初代親氏が築いたとされる。親氏没後、2代弟泰
親が3年程屋敷に入ったが、親氏の長男信広が松平太郎左衛門家を継承して屋敷へ入り、次
男信光〔松平宗家を継承〕が松平城へ入った。1420年信広へ譲られ、1592〜159
5年頃、廃城になったとされる。松平宗家は信光−親忠−長親〔長忠〕−信忠−清康−広忠
−9代徳川家康と続き、松平太郎左衛門家は信広−長勝−勝茂−信吉−親長−由重と続き、
1613年尚栄が旗本として、旧松平館跡地に陣屋を構え、重和−信和−親貞−尚澄−親相
−信乗−信言−信汎−頼載と続き、信英で明治を迎えた。現在は曲輪、土塁、井戸跡、横堀
、竪堀などが残る。
【所感】巴川沿いを走る県道39号線と国道301号線がぶつかる九久平町梁場信号から5
キロ程国道を走ると、松平氏発祥の地・松平郷の看板と松平郷駐車場〔深見工業の裏手〕が
在り、ここに車を止めます。駐車場のトイレ裏から「松平城址→」の看板に従い、舗装路を
300m程上ると、大橋護謨工業の前に城址の入口が在ります。松平城址の看板や国指定史
跡の石碑などが立っていますが、ここで縄張り図をしっかり頭に入れて周ると良いでしょう
。周り方はいろいろありますが、私は先ず四の曲輪へ向います。ここは曲輪の中で最も低い
場所で、西に五の曲輪、十一面観音堂の横から三の曲輪、東に井戸跡と三方へ分かれる分岐
点でもあります。五の曲輪の後、井戸跡へ向います。二の曲輪−主郭間の谷間に位置し、松
平城井戸跡の石碑とともに狭い削平地に井戸跡が在ります。井戸跡から見る二の曲輪と主郭
の切岸は急勾配で、容易に登れないことが確認出来ます。井戸跡から更に東へ進むと、目の
前に堀が現れます。この堀は主郭南の横堀から次第に傾斜して竪堀となって西方へ落ちてい
ますが、主郭・二の曲輪に対して南方からの進入を防ぐものと思われます。松平城跡で最も
分かり易い遺構の1つです。短い竪堀3本を経て、主郭の東側へ周り込むと、尾根からの進
入を遮断するように土塁と幅広の堀切が在ります。堀切と言うには幅が広過ぎますが、掘っ
たらすごいのかもしれませんね。次に二の曲輪の北側へ周り込むと、腰曲輪ような横堀よう
なものが現れます。これも北側からの侵入を防ぐものと思われますが、もう少しガッツリ掘
ってもいいかなと思います。この後、二の曲輪へ登り、主郭へ向います。全ての曲輪がそう
ですが、端部に土塁を持たない代わりに急勾配の切岸を持っていることが特徴で、主郭を最
高地とし、山の地形に合わせて削平地〔曲輪〕が段を持って並んでいます。最後に三の曲輪
を通って四の曲輪へ降りて行く順序になりますが、曲輪よりも主郭・二の曲輪周辺の防御〔
竪堀・横堀・堀切〕が印象的な城跡です。
松平城跡遠景
松平城跡の入口
主郭と曲輪4の分岐点
十一面観音堂・曲輪4
曲輪4
曲輪5・櫓台
曲輪3
曲輪2
主郭
松平城阯碑・主郭
曲輪2南側の井戸跡
主郭南側の横堀から落ちる竪堀
主郭南側の横堀
主郭南側の竪堀
曲輪2北側の横堀