備前 岡山城
Okayama castle
岡山城【岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1】
後楽園【岡山県岡山市北区後楽園1】
すまいるいちにのさん・西丸西手櫓【岡山県岡山市北区丸の内1丁目2−12】
岡山県立図書館・外下馬門跡石垣【岡山県岡山市北区丸の内2丁目6−30】
【立地】平山城
【別称】烏城・金烏城・石山城
【天守の構成・形式】複合式望楼型天守
【国重要文化財】岡山城月見櫓、西丸西手櫓
【国指定史跡】岡山城跡
【国特別名勝】後楽園
【歴史】正平年間(1346〜1370年)、名和長年の一族上神高直が築いた石山城〔岡山城二の丸
〕が前身とされるが、築城年は定かではない。永禄年間(1558〜1570年)頃、金光宗高の居城
であったが、宇喜多直家が宗高を謀殺して城を奪い、1573年大改築を施して居城とした。1581
年直家が病没し、1582年直家の次男八郎が10歳で遺領を継ぎ、秀吉に臣従。1582年「備中高
松城水攻め」の後、1585年秀吉は八郎を元服させ、名を宇喜多秀家と改め、備前・美作・播磨3郡
57万4000石を領有した。1590年新たに岡山城の普請が始まり、城の北から東にかけて旭川を
壕とし、西から南は三重の壕を巡らし、岡山〔標高20m〕を中心に天守〔1594〜1597年〕・
櫓35棟・居館31棟が築かれ、1597年竣工。1600年「関ヶ原の戦い」の祭、秀家は西軍に属
して敗れ、替わって筑前国名島33万6000石の小早川秀秋が備前・備中・美作72万石〔49万石
とも云う〕を得たが、1602年秀秋は病没、嫡子が無く絶家となった。1603年備前国28万石は
姫路藩主池田輝政の次男忠継〔家康の外孫〕に与えられたが、5歳であった為、長男利隆が後継となっ
た。1613年池田輝政が没すると、遺領は利隆が継ぎ、その内10万石が忠継に分与され、播磨国穴
栗・佐用・赤穂3郡内に於いて38万石となるが、1615年忠継は急逝した。忠継の遺領は弟忠雄に
相続され、この時、播磨国3郡は、池田輝政の四男輝澄に穴栗3万6000石、輝政の五男政綱に赤穂
3万5000石、輝政の六男輝興に佐用2万5000石を分封し、忠雄は1610年に得た淡路国6万
6000石を収公された。1632年忠雄が没し、嫡男光仲が継ぐが、3歳であった為、従兄弟の因幡
国鳥取藩主池田光政〔池田利隆の嫡男・池田輝政の孫〕と国替えを命ぜられ、備前国28万石・備中国
浅口・窪屋など5郡内3万5000石、合わせて31万石を領有した。1654年光政は陽明学者熊沢
蕃山を登用し、花鼻教場〔花園学舎〕・閑谷学校を創立。1672年光政は致仕して子の綱政に家督を
譲り、津田永忠を起用し、新田開発・治水・後楽園の造営〔1687〜1700年〕・閑谷学校の大改
修を行った。その後、1714年継政−1754年宗政−1764年治政−1794年斉政−1833
年斉敏−1842年慶政−1863年茂政と続き、1868年章政で明治を迎える。1933年国宝に
指定されるが、1945年空襲で天守を焼失。1966年天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀
が復元され、月見櫓・西の丸西手櫓は国重要文化財に指定されている。
【所感】岡山城は建物こそ多くありませんが、本丸・中の段の周りを一周すると、野面積み・打ち込み
接ぎなど造営時期の違った石積みを見ることが出来ます。天守に於いても四方から見る形が異なる建物
で、天守台と1階は五角形・2階は六角形・3階はほぼ長方形で西端が台形で不整形・4階は長方形・
5階・6階は正方形と各階の床の形が違う点も見所です。旭川を隔てた東側には後楽園が隣接しており
、時々見える天守も風情があります。「社会福祉法人弘徳学園デイサービスセンターすまいるいち・に
のさん」の敷地内に現存の西丸西手櫓、敷地の南面には西の丸の石垣が残っています。また、岡山県立
図書館の南東角に外下馬門跡の石垣も在ったりして町の風景に溶け込んでいます。
五重六階地下一階 外観復元 天守 石垣からの高さ:20.45m・本丸
天守の金鯱と本丸
東側から見た宇喜多秀家期の天守台石垣
月見櫓【国重要文化財】・中の段
宇喜多秀家が築いた石垣・中の段
池田忠雄期の月見櫓台石垣
小早川氏期〜池田氏初期の大納戸櫓台石垣
下の段から見た不明門と鉄門跡
中の段から見た不明門と黒門跡
復元 廊下門と小納戸櫓台
復元 六十一雁木上門・本丸〔写真:左〕天守の礎石・本丸〔写真:右〕
復元 六十一雁木上門と六十一雁木下門跡
数奇方櫓台〔写真:左〕伊部櫓台〔写真:右〕
下の段から見た宇喜多秀家期の石垣・天守曲輪南端
太鼓櫓台
大手口門跡