尾張 大野城
Ono castle

   大野城跡【愛知県常滑市金山字城山】
  青海保育園【愛知県常滑市金山字油手6】
    蓮台寺【愛知県常滑市小倉町5−66】
    斉年寺【愛知県常滑市大野町9−139】
龍安寺・霊光院【京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13】

【立地】丘城
【別称】宮山城

【市指定史跡】


【歴史】1350年一色範光〔1324〜1388年〕が標高49m、比高35mの丘陵端に宮山城を
築く。1366年範光は若狭国守護に補任されて知多を去るが、1379年三河国守護を兼任し、13
88年範光没後、その子詮範〔〜1406年〕が相続した。1392年若狭・三河に加え、丹後の守護
職も補任された。次の義範〔義貫・1400〜1440年〕は三河・若狭・丹後・山城国と尾張海東郡
・知多郡の守護となる。教親〔満範の子持信の子〕を経て、1467〜1477年「応仁、文明の乱」
では山名方の義直と、細川方の弟義遠〔大草城主〕が対立し、一色氏は急激に衰退した。替わって土岐
氏の家臣佐治駿河守宗貞が入り、為貞−信方〔1553〜1574年〕−一成〔1569〜1634年
〕と続いた。3代信方は信長の妹於犬の方を娶ったが、1571年「長島一向一揆」の初陣で戦死。1
584年4代一成は秀吉の命により、浅井長政の三女小督〔江〕を娶ったが、同年「小牧、長久手の戦
い」の際、佐屋川に於いて三河へ帰陣する家康方を助けたことから、強制離縁となり、大野城を追放さ
れたと云う。小督は豊臣秀勝〔秀吉の姉の子〕と再婚するが、1592〜1593年「文禄の役」で死
別〔病没〕。1595年徳川秀忠の正室〔継室〕となり、千姫、家光など2男5女を儲けた。その後4
代一成は、伊勢国安濃津の織田信包の世話になり、1598年信包と共に丹波国柏原へ移り、1634
年京都で没した。1584年もしくは1587年廃城となる。現在は城山公園となり、曲輪、横堀、土
塁などが残る。主郭の櫓台跡に佐治神社、天守を模した展望台、城門が建てられている。


【所感】大野城は青梅山団地の北東、青海保育園の西に隣接し、城山公園、佐治神社になっています。
駐車場は城山公園の南側に2つ、北側に1つ在り、車で訪ね易くなっています。主郭を囲む横堀跡が残
り、曲輪Uは遊具広場、曲輪Vは多目的広場になっています。主郭は伊勢湾が一望出来る天守を模した
展望台、城門、佐治神社、大野城趾の石碑などが在ります。大河ドラマ「江」の放送目前ということで
、歴史看板、ベンチ、展望台、案内標柱、案内図、駐車場看板などが綺麗に整備されていました。15
31年初代大野城主佐治宗貞が開創した佐治氏の菩提寺「斉年寺」は、初め、大野城内に在りましたが
、1587年大野城回禄によって焼失し、翌1588年現在の地に再建されました。初代佐治宗貞の墓
「寿山塚」は蓮台寺に在りますが、斉年寺住職のお話では2代為貞、3代信方の墓は大野城回禄の際に
焼失して無くなったそうです。4代一成の墓は龍安寺の霊光院に在ります。




天守を模した展望台


 

展望台から見た主郭〔写真:左〕主郭から見た伊勢湾〔写真:右〕

 

“大野佐治氏の歴史”の看板・主郭〔写真:左〕大野城趾の石碑・主郭〔写真:右〕


 

佐治神社・主郭櫓台〔写真:左〕佐治与九郎一成公のコンクリート像・佐治神社〔写真:右〕


 

主郭東側の横堀〔写真:左〕二の郭東側の土塁〔写真:右〕

 

二の郭・遊具広場〔写真:左〕大手道〔写真:右〕