三河 桜井城
Sakurai castle

  桜井城跡【愛知県安城市桜井町城阿原】
桜井靖霊神社【愛知県安城市桜井町城阿原51−3】
   菩提寺【愛知県安城市桜井町下谷87】
  桜井戸跡【愛知県安城市桜井町下谷】

【立地】平城

【市指定史跡】桜井城址・桜井戸跡

【桜井松平家】信定 ― 清定 ― 家次 ― 忠正 = 忠吉 = 家広 = 忠頼 ― 忠重 ― 忠倶 …
       忠喬 ― 忠名 ― 忠告 ― 忠宝 ― 忠誨 ― 忠栄 ― 忠興

【歴史】築城年は定かではない。豪族小浦喜平冶が築いた城とされる。松平宗家2代泰親は信光と共に
岡崎、安城へ領地を広げ、1471年安祥城を攻め取り、桜井城も所城となった。1520年代、松平
宗家4代親忠の三男親房が入るが、嫡子が無く、松平宗家5代長親の三男信定が桜井へ移り住み、桜井
松平家の祖となる。松平宗家7代清康に仕え、1529年「吉田城攻め」「尾張品野城攻め」で戦功を
挙げ、品野の地を与えられた。1535年松平宗家7代清康の尾張侵攻の際、2代清定の正室が織田信
定の娘であった為、攻めあぐね、織田信秀と通じて松平宗家略奪を企てる。1538年初代信定、15
43年2代清定死去。3代家次は、1558年織田勢から品野城を護り、岩略寺城を攻略する。4代忠
正は、家康に仕え、1569年「掛川城攻め」1570年「姉川の戦い」1573年「野田城の戦い」
1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」に参戦。1577年4代忠正没後、嫡子家広が幼少であった為、
叔父忠吉が5代を継ぐ。1581年「高天神城攻め」で戦功を挙げる。6代家広は1590年家康関東
移封に伴い、武蔵国松山城へ移り、廃城となる。その後、遠江国浜松、武蔵国深谷、上総国佐貫、駿河
国田中…と転封を繰り返し、明治まで続く大名家になった。現在は城山公園、桜井靖霊神社に変わり、
公園横と菩提寺に桜井松平氏歴代の墓がある。

【所感】県道44号線桜井町阿原信号を北へ100m程進んだ左手に桜井靖霊神社が在り、その北隣り
が城山公園になります。園内には城山公民館、公園入口の右手に歴史看板、左手の土手上に城址碑が在
ります。公園は石積みで周囲より一段高くなっており、入口に冠木門が築かれ、城跡らしい雰囲気を出
しています。昔、城址碑辺りの土地をお持ちであった方にたまたま会い、土塁ついたお話を聞くことが
出来ました。嘗ての城址碑は城山公園の南東角辺りに在り、公園整備に伴い現在地に移設。現在の城址
碑は唯一遺構と感じられる土塁の場所であり、戦後はもう少し高かったそうです。隣の靖霊神社側は拝
殿の場所が土塁。本殿が土塁上に在り、拝殿がその東下在ったそうですが、再建に伴い全体に西へずら
し、土塁を取り除いて拝殿、盛り土をして本殿を置いているのが現状です。公園西隣りに在る桜井松平
家墓所を撮影中に声を掛けられたんですが、この墓所も嘗ては桜井駅近くに在ったものを移設したそう
です。公園北300mに桜井松平氏の菩提寺「菩提寺」、菩提寺の南150m程に桜井戸跡が在ります
。桜井戸は地名「桜井」の由来となった井戸です。聖徳太子が巡幸の際、里人が飲料水に不自由してい
ることを聞き、杖で桜樹の下を掘って湧水が出たことに始まります。




櫻井城址の石碑・城山公園







桜井城跡・城山公園




桜井城址の歴史看板

 

土塁を取り除いて建てられた靖霊神社拝殿〔写真:左〕桜井戸跡〔写真:右〕



桜井松平家墓所・城山公園横




桜井松平家墓所・桜井山 菩提寺